<藤原氏>南家

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F028:二階堂行政

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二階堂行政 二階堂行光

 鎌倉幕府の政所令、後に別当、十三人の合議制の一人。代々政所執事を務めた二階堂氏の祖。後に鎌倉二階堂に屋敷を構えたことから二階堂の苗字を称した。
 行政の『吾妻鏡』での初見は1184年(元暦元年)8月24日条であり、新造の公文所棟上げの奉行として三善康信とともに登場する。おそらくはこの少し前に鎌倉に下向し、頼朝に仕えたものと思われる。同年10月6日条の新造公文所の吉書始では、別当大江広元(当時は中原)の元に寄人として列席している。
 1189年(文治5年)の奥州合戦では、『吾妻鏡』9月7日条の藤原泰衡の郎従由利八郎を生虜った件での相論を奉行し、また、その翌日の9月8日条には、朝廷への奥州合戦の次第を報告するにあたってそれを行政が書いたことが記されている。
 その翌年の1190年(建久元年)9月15日条の源頼朝の上洛では路次の事、貢金、その他全体の雑事を沙汰する諸事奉行人の筆頭に行政の名が見える。その他、この時期『吾妻鏡』に見える沙汰等に行政の名が多く見られ、『吾妻鏡』1191年(建久2年)1月15日条に政所では別当・大江広元に次ぐ政所令として「主計の允藤原朝臣行政」とある。その後の1193年(建久4年)、五位に叙され民部大夫と呼ばれるようになり、同年政所別当が複数制になった時に別当に昇格した。
 1199年(正治元年)4月12日条には頼朝の跡を継いだ源頼家が直に諸訴論に関与することを停止し、13人の重臣が合議して決定することになったとあるが、その中に民部大夫行政の名も入っており、大江広元,三善康信と並んで初期鎌倉政権を支えた実務官僚であった。

 1218年(建保6年)に源実朝が右大臣となるが、『吾妻鏡』12月20日条にはその関連記事として政所始めが記されており、「右京兆並びに当所執事信濃の守行光及び家司文章博士仲章朝臣・・・」と、北条義時(右京兆は北条義時のこと)の次席で政所の実務官僚のトップとして登場する。
 この時代、実権はその母の北条政子にある。二階堂行光はその尼将軍政子の側近として様々な場面に登場するが、その中でも重要なものが、源実朝が公暁に暗殺された後の『吾妻鏡』1219年(承久元年)2月13日条に「寅の刻、信濃の前司行光上洛す。これ六條宮・冷泉宮両所の間、関東将軍として下向せしめ御うべきの由、禅定二位家申せしめ給うの使節なり。」とあり、政子の使者として朝廷に赴き、その交渉を行っていることである。慈円の『愚管抄』にもそのときの行光のことが記されている。
 このときの交渉は、後鳥羽上皇の子を鎌倉の将軍に迎えたいというものであったが、既に北条氏打倒を考えていた後鳥羽上皇に拒絶される。しかし、この時期の鎌倉政権の行政事務、及び朝廷との外交関係実務はこの二階堂行光を中心に動いていたともみられ、『吾妻鏡』のこの時期の記録の多くはこの二階堂行光の筆録、あるいは所持した資料によっていると見られている。
行光の後の政所執事は行光の甥の伊賀光宗となったが、光宗が1224年(元仁元年)の伊賀氏の変で流罪となったあと、行光の子の二階堂行盛が就任し、以降この家系がほぼ政所執事を世襲する。

二階堂行村 二階堂行方

 行村は文筆の家ながら京で検非違使となったことから山城判官と呼ばれ、鎌倉では侍所の検断奉行(検事兼裁判官)として活躍している。和田合戦では『吾妻鏡』1213年(建暦3年)5月4日条に「山城判官行村奉行たり。行親・忠家これを相副う」とあり、行村が北条方の軍奉行とみて間違いないだろうとされ、『吾妻鏡』の和田合戦の多くは行村が取りまとめた史料によると見られている。

 6代将軍・宗尊親王の御所中雑事奉行(御所奉行とも)。1249年(建長元年)の引付設置とともに引付衆、1252年(建長4年)宗尊親王を迎えるために京へ上る。1253年(建長5年)、4番引付頭人、このとき頭人となったのは、北条政村,北条朝直,北条時章と得宗家周辺の北条一門だけであり、実務官僚としての二階堂行方の地位の高さが窺える。
 1259年(正元元年)9月に評定衆、1263年(弘長3年)7月5日に御所中雑事奉行を中原師連に交替。同年10月8日に出家。『吾妻鏡』の当該時期には敬称としての「和泉前『の他に「行方」と実名表記されている記事が多数見られること、同様に表記されている者に目上の者が居ないことなどから、この時期の『吾妻鏡』は、二階堂行方の筆録をベースにしていると見られている。