F007:藤原為憲 |
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F028:二階堂行政 |
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二階堂行政 | 二階堂行光 |
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鎌倉幕府の政所令、後に別当、十三人の合議制の一人。代々政所執事を務めた二階堂氏の祖。後に鎌倉二階堂に屋敷を構えたことから二階堂の苗字を称した。 |
1218年(建保6年)に源実朝が右大臣となるが、『吾妻鏡』12月20日条にはその関連記事として政所始めが記されており、「右京兆並びに当所執事信濃の守行光及び家司文章博士仲章朝臣・・・」と、北条義時(右京兆は北条義時のこと)の次席で政所の実務官僚のトップとして登場する。 |
二階堂行村 | 二階堂行方 |
行村は文筆の家ながら京で検非違使となったことから山城判官と呼ばれ、鎌倉では侍所の検断奉行(検事兼裁判官)として活躍している。和田合戦では『吾妻鏡』1213年(建暦3年)5月4日条に「山城判官行村奉行たり。行親・忠家これを相副う」とあり、行村が北条方の軍奉行とみて間違いないだろうとされ、『吾妻鏡』の和田合戦の多くは行村が取りまとめた史料によると見られている。 |
6代将軍・宗尊親王の御所中雑事奉行(御所奉行とも)。1249年(建長元年)の引付設置とともに引付衆、1252年(建長4年)宗尊親王を迎えるために京へ上る。1253年(建長5年)、4番引付頭人、このとき頭人となったのは、北条政村,北条朝直,北条時章と得宗家周辺の北条一門だけであり、実務官僚としての二階堂行方の地位の高さが窺える。 |