<藤原氏>南家

F028:二階堂行政

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F030:二階堂行忠

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二階堂行忠 二階堂行貞

 政所執事は代々主に二階堂行盛の子孫が世襲している。最初は二階堂行泰が継ぎ、その後に子である行頼,行実が継ぐがそれぞれ早死にする。その後、政所執事を継いだ行泰の弟の二階堂行綱の家系でも子・頼綱が政所執事を継いで2年後に死去したため、政所執事の職には当時評定衆であり叔父・行忠が63歳という高齢で就任することになる。
 行忠の嫡子・行宗は引付衆まで進んだが行忠より早く没しており、行忠の没後は孫・行貞が22歳で政所執事に就任した。

 父の二階堂行宗は引付衆まで進んだが、父親の行忠に先立って1286年(弘安9年)に没しており、1290年(正応3年)の行忠の没後は孫の行貞が22歳で政所執事に就任した。その人事は単に家を継いだだけに等しかったが、その年は1285年(弘安8年)の霜月騒動によって得宗家被官・内管領の平頼綱が実権を握っていた時期にあたる。
 それから3年後の1293年(正応6年)に北条貞時が平頼綱を討ち(平禅門の乱)、平頼綱の時代の人事を否定し、霜月騒動以前の北条時宗の時代への回帰を計る。その煽りを食らったのか、二階堂行貞は同年10月に政所執事の職を罷免される。そしてこれまでは政所執事を出したことのない二階堂行村(隠岐流)の祖孫・二階堂行藤(出羽備中家)が10月19日に政所執事となる。そしてその二階堂行藤が1302年(乾元元年)8月に没したあと、3ヶ月の空白期間をおいて二階堂行貞が再任されるが、この空白の3ヶ月は得宗・北条貞時の元での人事の迷走及び信濃流行貞と隠岐流貞藤(行藤の嫡男)の対立の激しさを物語っている。
 そして、この二階堂行貞が『吾妻鏡』の編纂者の一人と目されているのだが、行貞の祖父で二階堂行盛の子・行忠の誕生を『吾妻鏡』に書き込んだのが行貞だとするならば、それは単なる自分の先祖の顕彰を越えて、二階堂行藤とその子・時藤の隠岐流に対して、二階堂行光,二階堂行盛から二階堂行忠、そして自分へとつながる政所執事の家系としての正当性を主張するものとして十分な動機が推測される。
 二階堂行貞は1329年(嘉暦4年)2月2日61歳で没するまで政所執事を務め、没後その職は子の二階堂貞衡が継いだ。

二階堂行元

 系図的には叔父の行広の後継者であるが、政治的な立場としては実兄の二階堂高衡(行直)の地位を継承した。高衡には嫡男の氏貞がいるが畠山国清の失脚後に代わりに鎌倉府政所執事になっている。

 観応元年(1350年)に検非違使に任じられたが、観応の擾乱では一族とともに足利直義を支持して北国に下向した。
 直義の没落後、遅くても文和3年(1354年)までに許されて京都の室町幕府に再出仕し、足利義詮の信任を得て貞治2年(1363年)には中務少輔に任じられている。足利義詮の死後に出家するが、足利義満の時代にも重用されて応安年間以前に幕府の政所執事に任じられ、評定衆にも任じられた。
 だが、康暦年間に伊勢貞継に政所執事の地位を奪われている。その後、地方奉行を少なくても明徳2年(1391年)まで務めている。室町時代の二階堂氏は観応の擾乱以降、その多くが鎌倉府に仕えたが、行元の系統のみは京都の幕府に仕えて代々評定衆の地位を継いだ。