F030:二階堂行忠 |
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六郷道行 | 六郷道行 |
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出羽国仙北郡六郷邑より興り、同地を本拠とした武家。二階堂晴泰は足利義晴から偏諱を受けてその名を称し、その孫・道行の代に六郷と称した。 |
系図上は二階堂晴泰の曽孫にあたる。天正5年(1577年)二階堂道行という人物が「涅槃像」を仙北郡六郷の六郷氏の菩提寺永泉寺に寄進したことを記す記事が『永泉寺什物涅槃像事』に収載されており、それには「大旦那藤原朝臣二階堂弾正忠道行」と記されている。また、同時代史料として戦国時代の六郷氏に関わる初見は、この記述であり、『羽後・本庄六郷家譜』,新井白石『藩翰譜』,江戸時代後期の『寛政重修諸家譜』のいずれにあっても、政乗の父として「道行」と記述している。さらに、『羽後・本庄六郷家譜』によれば二階堂から六郷に改姓したのは道行の代であるといい、天正10年(1582年)頃、安東愛季が小野寺義道にあてた書状にも「六郷方御奉」の記述がある。したがって、天正期に入って二階堂氏が六郷姓を用いることになり、二階堂道行こと六郷道行が天正19年(1591年)に豊臣秀吉より仙北中郡のうち4,518石の本領安堵を受けた六郷政乗の父であることはほぼ確実と考えられる。天正15年(1587年)、出羽横手城の小野寺義道の配下(仙北七人衆)に属し、秋田実季と戦ったのは道行ではなくて政乗(史料から計算すると20歳)であるので、天正5年から15年のあいだに道行は没したか家督を政乗に譲ったものと推定できる。 |
六郷政乗 | 六郷政速 |
出羽横手城に本拠をおく小野寺義道は、出羽南部において最上氏と伊達氏が対立抗争を展開している隙を狙い、たびたび山形県内陸北部に攻め入っているが、天正14年(1586年)、義道が最上領に侵攻したとき、政乗は本堂氏,久米氏,金沢氏らと共に小野寺軍に加わっている。また、天正15年(1587年)にも小野寺配下の山北七人衆の一人として安東実季(秋田実季)と戦った。 |
はじめは第5代藩主・政長の長・政展が政林の養嗣子として跡を継ぐ予定だったが、政展が安永5年(1776年)3月18日に早世したために世子となり、天明3年(1783年)12月18日の父の隠居により跡を継いだ。 しかしその治世中、城下町の火事や大地震に見舞われ、また名主の不正から大規模な百姓一揆「万沢騒動」が起こった。事後処理で不正や失態があり、さらに混乱を招き、市街地では問屋同士の紛争が起こるなど、その藩政においては多難を極めた。 地震後の文化3年(1806年)には、領内の商人52人から総額1700両余を借金し開拓費用に充てたとも伝わる。一方で、天明期に藩士の教育のため、城内三の丸に藩校・修身館を創設している。 文化9年(1812年)10月26日、49歳で死去した。長男・政芳は文化7年(1810年)に廃嫡されており、跡を3男・政純が継いだ。 松尾芭蕉が『奥の細道』でも訪れた「遠浅の海に小島が浮かぶ」九十九島・八十八潟の景勝地・本荘藩領の象潟はしかし、前述の鳥海大地震(象潟地震)により隆起し、「広々とした陸地に小山が点在する」風景となってしまった。 それまでは景勝地として大事にし、島守という役人を置くなどしていた本荘藩ではあったが、藩はこれを逆転の発想で好機と捉えた。つまり、未開拓の広大な平原が出現したわけである。資金を集めた藩は地震より数年後から、干拓農地化事業に着手する。 当初は元は島の小山を全て潰し、その残土や刈り出した松の木を使って広大な農地を開発する予定であったが、地元の名刹・蚶満寺住職の覚林が景勝地の開拓に反対運動を始めた。藩が自分の主張を受け入れないとみた覚林は京に赴き、閑院宮家を動かし、蚶満寺を祈祷所としてもらい、朝廷の権威を背景に反対運動を展開した。これにより藩は、蚶満寺や覚林に公然と手出しができなくなった。新田開発を進めたい藩は、江戸に出ていた覚林を捕縛、僧侶ではなく俗名勘助という名目で獄中の人とし、覚林は獄死した。これにより藩の開拓事業は進行するが、小山の主だったものは残された。覚林の祟りを恐れたとも、単に金銭や手間上の都合とも言われているが、とにかく今日の「田園風景の中に島のように小山が点在する」名勝・象潟が残った。 |