鎌倉時代の幕府実務官僚。出羽大夫判官,尾張守,備中守と称し、1270年に出家して道証と号した。 『吾妻鏡』によれば、1258年までには検非違使となっていた。九条頼経,九条頼嗣,宗尊親王ら、京都から推戴された将軍に近習として仕え活躍し、鶴岡八幡宮の参詣,方違,放生会などに供奉人として参与した。頼嗣が将軍職を更迭され、京都へ帰還する際には路次奉行を勤めた。武芸にも堪能で、流鏑馬の射手や勝長寺院の寺門守護を担当した。1265年に引付衆、1270年には評定衆に列せられ、1272年には安堵奉行に任命されている。
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甲斐国山梨郡牧庄主で、嘉元3年(1305年)には鎌倉から夢窓疎石を招き浄居寺を再興。 正中元年(1324年)、後醍醐天皇の倒幕計画が露見した正中の変において、『太平記』に拠れば鎌倉へ送られた後醍醐天皇誓書の判読を止めたという。 元徳元年(1329年)、京都では後醍醐天皇と退位を求める持明院統の間で対立が発生し、双方が鎌倉へ働きかけており、3月には道蘊が使者として上洛。道蘊は持明院統側に有利な独自の調停案を提示しており、北条貞顕は道蘊を批判し、『太平記』では「朝敵の第一」と道蘊評を記している。道蘊の独断に関しては、同年2月には政所執事の二階堂行貞が死去し、後任と目されていた道蘊の上洛中に行貞の子貞衡が補任されたことに対しての不満を示したものであるとする指摘もある。 元徳2年(1330年)に引付頭人、甲斐国において再び夢窓を招き庄内に恵林寺を創建。正慶元年(1332年)には政所執事を務め、北条高時を補佐。元徳3年(1331年)、後醍醐天皇の退位を促す使者として安達高景とともに上洛し、宮方の楠木正成が挙兵した千早城攻めにも参加。 鎌倉幕府滅亡後も建武政権に参加し雑訴決断所所四番衆で北陸道を管轄する。建武元年(1334年)の西園寺公宗の陰謀露見に際して、六条河原で処刑される。
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