『新撰姓氏録』では神魂命(神皇産霊尊に同じ)の5世の孫とする所伝が多く、滋野宿祢,大坂直,紀直,大村直田連,川瀬造、また伊蘇氏(伊蘇志),楢原氏,滋野氏の祖と伝わる。紀国造の末裔の紀俊行氏が所有する「紀伊国造次第」では、子に比古麻命がいるとされる。 『先代旧事本紀』天神本紀によれば高天原から葦原中国へ降臨することとなった饒速日尊の護衛として付き従った32神の1柱で、同書国造本紀や紀伊国造家が伝える『国造次第』によれば神武天皇によって初代の紀伊国造に任じられた。 異伝として『紀伊続風土記』所載の「国造家譜」は、日前大神と国懸大神(紀伊国造が奉斎する和歌山市秋月鎮座の日前宮の祭神)の降臨に随従して以後、両大神に仕え、後に神武天皇の東征に際して両大神の神体である日像鏡と日矛の2種の神宝を奉戴して紀伊国名草郡に到来し、毛見郷の琴ノ浦にそれを鎮座させて天皇の東征の成功を祈念したために、即位後の天皇によって論功行賞として紀伊国を授かるとともに国造に任じられ、以来その子孫が国造職を襲うとともに日前宮を奉斎し続けることとなったとの由来を記す。また、同家に伝わる別の『紀伊国造系図』は更に詳しい伝えを載せている(省略)。 天道根命の降臨について、日前・国懸両大神に随従したものと説くものと、天孫降臨に随従するものとであったと説くものに分かれるが、更に後者については降臨の主体を天津彦彦火瓊瓊杵尊とするか饒速日尊とするかで説が分かれる。また『紀伊続風土記』は、天孫降臨での供奉や神武天皇の東征、日前宮との関係等は全て誤伝であると斥け、『先代旧事本紀』地祇本紀に紀伊国造は五十猛命,大屋姫命,抓津姫命の所謂伊太祁曽三神を祀ると伝わるので、天道根命自体は紀伊において2種の神宝ではなくこの3神を祀っていたものであろうと説いている。 国造制については第26代・継体天皇朝から第29代・欽明天皇朝にかけて(6世紀前半)、大和の王権が地域の支配のために在地の首長層を再編した制度であると見るのが通説とされ、従って初代の神武天皇朝に掛けて語られる国造就任は『先代旧事本紀』「国造本紀」に見える諸国の国造とともに信じ難い所伝であるとする論者が多い。また、制度としての国造が後の畿内から順次整備されたであろうこと、畿内以外の国造の多くが第13代・成務天皇から第16代・仁徳天皇の時代に任じられたとされていること等から、これは国造制が整備されていく初期の段階という相対的に早い時期に紀伊国造が設けられた反映であろうとの見方もある。
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