紀伊国の名草郡の大領として同地域を本拠地とし、紀伊国造を世襲してきた紀直一族である。紀直氏は、『新撰姓氏録』「河内国神別」天神によると、「神魂命五世孫天道根命之後也」、「和泉国神別」天神には、「神魂命子御食持命之後也」とある。 敏達天皇は、欽明天皇の時代に新羅によって滅ぼされた任那の復興を図るため、百済にいる肥の葦北国造阿利斯登の子、達率日羅を日本に迎え入れようとした。百済に派遣されたのが、同じ国造である紀押勝と、吉備海部直羽嶋である。しかし、百済は許さず、押勝らは帰国したが、天皇は諦めず、再度羽嶋を百済に派遣した。羽嶋は初回のように百済と正面から交渉しても効果がないと判断し、日羅と直接会う手段をとった。日羅の知恵により、百済王は日羅の帰国を許し、徳爾ら若干の人員をつけて送り出した。 押勝は、農耕神としての日前宮を祭祀した在地豪族と考えられている。日前宮の東方に存在する岩橋千塚古墳群は、紀直一族の墳墓と推定されている。
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