<神皇系氏族>天神系

OB04:大部船瀬足尼  大部豊日 ― 大部船瀬足尼 ― 児玉惟行 KD01:児玉惟行

 

リンク KD02KD10KD15
児玉就忠 児玉元良

 毛利元就譜代の家臣で、行政手腕に長けていたことから元就に厚く信任を受けた。元就には「家中での人あたりもよく行政手腕に優れている」と評されて、桂元忠とともに奉行となり、元就の政務の中心として働いた。
 毛利隆元の時代になり、毛利家中の五奉行制が確立された際には、五奉行の一人となった。五奉行としての役目は元就と隆元の連絡調整役であり、また、元就との被官関係はそのままであった。そのため、隆元の家臣であった赤川元保や国司元相とは不仲であったとされる。
 行政にはその手腕を発揮した就忠であったが、合戦は不得手であり、尼子氏との戦いで戦功を挙げているも他の家臣にその働きは劣ったと言われている。
 永禄5年(1562年)4月29日に死去。家督は嫡男の児玉元良が継いだ。

 天文22年(1553年)に毛利隆元を烏帽子親として元服。永禄5年(1562年)に父の児玉就忠が病死すると家督を相続する。同時に毛利氏の五奉行の地位も引き継ぎ、天正12年(1584年)まで務めた。
 永禄8年(1565年)には毛利輝元の指揮下で月山富田城の戦いに従軍。元亀元年(1570年)には山中幸盛率いる尼子再興軍との布部山の戦いにも従軍した。また、織田氏の対立が激しくなると播磨国方面にも進出し、天正6年(1578年)の上月城の戦いにも従軍した。天正12年(1584年)には毛利氏の使者として伊予国の河野氏のもとへ派遣されている。
 天正13年(1585年)11月19日に死去。輝元は元良の死を痛惜し、翌日に粟屋元種に書状を送って、元良の遺族を慰藉するよう依頼している。

児玉元次

児玉周姫

 毛利輝元と毛利秀就の2代に仕えた。
天正17年(1589年)1月11日、輝元の加冠により元服し、「元」の偏諱を与えられる。同年、輝元に従って上洛し、豊臣秀吉から豊臣姓を下賜された。また、同年7月13日には従五位下に叙せられ宮内少輔に任官した。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後は、幼少の秀就の後見として江戸へ付き従った。この頃の元次は母方の「湯原」の苗字を名乗っており、慶長6年(1601年)1月7日に輝元と秀就から「又右衛門尉」の官途名を与えられた際の宛名が「湯原六次郎」となっている。
 寛永2年(1625年)7月23日、江戸で死去。嫡男の就次は慶長7年(1602年)に既に死去していたため、就次の子の就信が後を継いだ。

 「古老物語」によると、幼少の周姫(後の二の丸殿)が自宅門前で遊んでいたところ、美少女故に通りがかった輝元の目に留まり、その後、輝元はしばしば元良の広島時代の自宅を訪問するようになる。輝元のこの行動を快く思わない元良は、天正12年(1584年)に13歳の周姫を杉元宣に嫁がせた。しかし、輝元は諦めることなく佐世元嘉らに命令し、強奪して側室とした。これに立腹した元宣は、天正17年(1589年)の大坂の豊臣秀吉への直訴を計画するが、事の重大さに気付いた小早川隆景により野上庄沖にある大島の船隠で殺害された。
 不本意ながらも輝元の側室となった周姫は、広島城二の丸に住み「二の丸殿」として輝元の寵愛を受ける。なお、二の丸殿が未完成の広島城に早々に居住することとなったのは、輝元正室である南の方の嫉妬によるものとされる。その後、文禄4年(1595年)に毛利秀就、慶長4年(1599年)に竹姫、慶長7年(1602年)に就隆を出産。
 毛利家の転封により広島城に戻ることができなくなると、萩城に入らずに周防国山口の覚皇寺に移った。慶長9年(1604年)8月1日に32歳で病死し、山口古熊の西方寺に葬られた。萩に入ることができなかったのは、前述の通り正室である南の方が許さなかったと言われている。明治になって、山口市の香山公園(瑠璃光寺)にある毛利家菩提所の裏に墓が移された。

児玉春種

 吉川元春に奉行人として仕え、「春」の偏諱を与えられた。
 春種は奉行人として、在番・城普請などの軍事指令の伝達、知行宛行の伝達、打渡坪付の発給、権益安堵の伝達、相論調停指令の伝達、納税証明の発給といった活動を行っている。
 天正5年(1577年)2月26日、朝枝高明,二宮春澄,市川春俊,伊賀田春法と共に井上神兵衛へ備中国新見の内の所領の打渡坪付を発給した。天正6年(1578年)9月14日、二宮春澄と共に今田経高へ楪城誘指令を伝達した。
天正8年(1580年)7月24日には桂春房,井上春佳と共に吉川経安へ、9月23日には井上春佳、二宮春次、桂春房と共に山県善右衛門尉へ知行宛行の伝達を行う。また、同年12月8日には桂春房、二宮春澄と共に肥塚与四郎へ伯耆国打吹城在番と20石の知行宛行と段銭免除の約束を伝達し、12月16日には伊賀田春法,境春倫,井上春佳,森脇春親,朝枝高明,森脇春忠,二宮春澄,桂春房,市川春俊と共に岡本春識へ美作国小田草城在番と負物免許を伝達した。
 天正9年(1581年)6月24日、吉川経言(後の広家)と石見小笠原氏との養子縁組騒動に関して毛利輝元から書状を受け取る。
 天正13年(1585年)5月26日、千家義広へ町屋敷7ヶ所の進置、毛利氏の検使の通知、吉川氏家の検使派遣などを伝達。
 天正14年(1586年)から始まる九州平定では吉川元春や元長らが参陣したが、春種は九州在陣中の元長から天正15年(1587年)5月27日付で山中家信と元長の直臣である佐々木平兵衛尉と共に、人数催促や普請道具の調達、兵粮の調達などの指令を受けた。この指令に直ちに従わない吉川氏家臣は所領を没収するよう述べられていることから、春種は九州平定に従軍せず、吉川氏の居城である日野山城の近辺にいたと推測されている。
 天正16年(1588年)6月23日、鰐淵寺に知行宛行の上申を行う。
 天正20年(1592年)9月8日に死去。子の元通が後を継いだ。