<神皇系氏族>天神系

KD01:児玉惟行  大部豊日 ― 大部船瀬足尼 ― 児玉惟行 ― 児玉弘行 KD02:児玉弘行

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児玉弘行 児玉家行

 弘行は、永保3年(1083年)9月に起きた後三年の役に参戦していたとされ、伝承では、源八幡太郎義家の副将軍として、清原家衡,清原武衡軍と戦ったとされる。後に後白河上皇の命で作成された『奥州後三年合戦絵巻』には、大将軍八幡太郎義家と共に赤烏帽子姿で座した副将軍児玉有太夫弘行朝臣の姿が描かれていたとされるが、後の武蔵武者などの謀により別人の名に書き替えられてしまったと言う伝聞が残る。
 伝承では、後三年の役において軍功を上げたとして、源頼義から団扇を賜ったとされる。これが後に児玉党の軍旗に描かれた唐団扇の由来であり、家紋が軍配団扇紋となった由来とされる。
 『小代行平置文』によれば、奥州征伐後に弘行と弟の有三別当太夫経行は児玉郡を屋敷として居住する様に命じられ、弘行は児玉・入西の両郡の他、久下,村岡,忍などを領有したとされる。
 後三年の役後の活動としては、伝承として、源義家に従わない多胡氏の討伐を命じられ、自分の代官として弟経行を派遣し、多胡氏を討ち滅ぼしたとされる。こうした伝承からも源氏と児玉(遠峰)氏の密接な関係がうかがえる。

 児玉武蔵権守家行は児玉党の本宗家2代目である(有道)児玉大夫弘行の嫡男として生まれ、児玉党本宗家3代目を継いだ武将である(児玉氏分家の子孫、児玉宗隆行の子息に同名の人物がいるため混同に注意)。
 元は有道家行を称していたが、武蔵権守解任後に児玉氏を名乗ったとされ(従って、当時は有道武蔵権守家行と称した)、真下を除く地域を領有し、児玉郡一帯を勢力下においた。また、複数ある系図の中には、武蔵権守以外にも、「河内権守、児玉」,「越生二郎、河内守」等とある。

塩谷家遠 富田近重

 家遠は、児玉郡南部の塩谷(金屋・飯倉・田端・児玉・八日市ほか)の地を譲られ、移住して、塩谷平太夫家遠を称して児玉党系塩谷氏祖となった。
 出生地については、父家行が「河内権守」、兄家弘が「河内守」と記述されている事から児玉郡の河内村(現児玉町河内)の生まれと考えられる。
 生年に関する考察として、家遠の子息の1人である家経が承久3年に71歳で亡くなったとあるため、家遠は12世紀初めの生まれと見られる。
 児玉党系塩谷氏の一族は、庄氏や富田氏とは異なり、『吾妻鏡』より『源平盛衰記』によく記述されている。そして、武功より勇ましい戦死が目立つ一族である。

 児玉党系富田氏の2代目。富田氏館(武州)2代館主。児玉党系富田氏の祖である富田三郎近家の嫡男として、武蔵国児玉郡富田村・富田氏館で生まれたものと考えられる。
 『吾妻鏡』によると、承久3年(1221年)の承久の乱で、鎌倉幕府(北条泰時)軍についた富田小太郎(近行)が宇治川の合戦で敵を1人討ち取る功績を上げている。また、富田太郎(近重)自身の名も記されていることから承久の乱で幕府軍として参戦し活躍したものと見られる。この時兄弟の一人である六郎兵衛長家は、朝廷側として戦い討ち死にしている。