新羅系渡来氏族

MY02:児島高徳  三宅豊背古 ― 児島高徳 ― 宇喜多宗家 UT01:宇喜多宗家


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宇喜多宗家 宇喜多久家

 「家」の字を通字とする宇喜多氏で確認できる最初期の当主。伝承ないし系図上は、三条信宗(傍流であるので「三条」の姓ではない可能性もある)の子。かなり不明な点が多いが、応仁の乱の戦火から逃れるために、地方へと下向する公家も多かったが、宗家もその中の一人ではないかと考えられている。赤松氏を頼り備前へと下向した宗家は、そこで児島高徳の孫にあたる児島高家の娘と入婿という形で婚姻関係を結び、宇喜多を称したという。すなわち、児島との血縁関係は皆無である。 しかし、西大寺文書や大永6年(1526年)邑久郡弘法寺 (瀬戸内市)への寄進状に名が残る以上、「宇喜多宗家」なる人物が存在したことは確実であり、久家を児島信徳の子とする説を信用するならば宗家が久家を養子にとったのではないかと考えられる。ただ、その場合は「信徳という男子が存在しているのに何故、宗家を養子にとったのか」等の疑問が残る。
 また、宗家が西大寺に土地の寄進を行う1年前の文明元年(1469年)に宇喜多五郎右衛門入道寳昌(現存する古文書で確認できる最古の宇喜多氏)が成光寺に寄進をしたとの文書が残っている。これは宗家と同時期に下向をした父の信宗ではないか等、諸説あるがこれもまた詳細は一切不明である。

 宇喜多久家は実子、あるいは児島信徳の息子を養子縁組したのではないかと言われている。ただ、養子とすると、「何故、児島の嫡流として生まれたはずの久家をわざわざ余所者である宗家へ養子に出す必要があるのか?」等の矛盾が生まれる。だが、久家が宗家の実子であるという裏付けとなる史料も存在しない。いずれにせよ宇喜多宗家の子とも児島信徳の子とも言われるが定かではない。
 家督相続の時期などについても不明瞭だが、文明2年(1470年)に赤松政則の命で宇喜多宗家が西大寺に土地を寄進したという記録が西大寺文書に残されているので、少なくとも家督相続はこれ以後であると思われる。
 当時の宇喜多氏は直接的な君臣関係に組み込まれていない在地の土豪(国人・国衆)で、備前守護・赤松氏の命令を宿老である浦上氏本家が一族に任せている備前守護代の実務担当である郡代・島村氏より指示されて動く程度の存在に過ぎなかった。延徳4年(1492年)に西大寺へ寄進をしている。年不詳ながら難波豊前に討たれた父の遺領の相続を認める旨を伝える文書が残っている。また、明応8年(1499年)には子の能家が浦上則宗に仕えて活躍しており、久家の名前もこれ以後に全く見当たらないため、この頃にはすでに家督を能家に譲って隠居、もしくは既に没していたのではないかと推察される。
 なお、2019年に、京都・賀茂別雷神社の「賀茂別雷神社文庫」から、同社領の竹原荘に関するやり取りで、1513~14年に久家の花押が確認され、久家の家督譲渡期や能家と親子であったかなどに再考がせまられている。 

宇喜多能家 浮田国定

 明応5年(1496年)頃に、父・久家が宇喜多氏の代表として部下に宛てた書状などが存在しているが、明応8年(1499年)には既に宇喜多の代表は能家に代わっているため、家督相続はこの頃のことと推測される。当時、守護赤松氏に属する浦上氏と将軍直属の奉公衆である松田氏は残存する山名氏の影響力もあって備前国内で勢力を争っていた。明応5年(1496年)の赤松政則の死により後継者を巡って家中は三分し、浦上氏も各派に分かれ、明応8年(1499年)には浦上則宗と浦上村国とが合戦に及んだ。則宗は戦いに敗れ白旗城に篭城したが、村国の包囲で落城寸前になり、一族のものまでが則宗を見捨てて落ちのびようとするにいたった。この時、能家が義を説き、励ましたことで城兵は奮戦し、やがて村国は兵を引き揚げた。文亀2年(1502年)冬、能家は浦上軍の総大将として松田勢との戦に赴き、吉井川を越えた宍甘村付近で自ら敵将・有松右京進を討ち取るなどの奮戦をした。文亀3年(1503年)、能家は浦上勢と共に吉井川を渡り、松田勢と雌雄を決すべく上道郡に進入した。松田元勝も自ら兵を率い御野郡笠井山に陣を定め、旭川の牧石の河原で両軍は激突した。松田勢は山から軍を駆けおろして浦上勢を包囲する形となったが、これを見た能家は宇喜多全軍を率いて旭川をわたり救援に向かった。能家は兜に矢をうけ槍で突かれながらも奮戦し、乱戦を制して松田勢を敗走させた。
 則宗の跡を継いだ村宗は、讒言などもあり出仕を停止させられて赤松義村と不和となり、永正15年(1518年)には居城の三石城に退去した。義村自ら兵を率い三石城へ侵攻すると、城中は動揺し多くの逃亡者を出したが、将兵の信頼を得ていた能家の活躍により赤松勢の猛攻に耐え、やがて船坂峠の戦いでこれを敗走させた。
 永正17年(1520年)、赤松義村は再度兵をおこし、三石城には浦上村国を、美作国東部を攻略すべく小寺則職を向かわせた。東美作で赤松勢は浦上勢を圧倒したが、能家は踏みとどまった少数の兵を率いて朝駆けを行うなど、離散した兵を糾合し赤松勢と対峙した。さらに村宗は小寺氏の家臣を寝返らせることに成功し、これをもって東美作の赤松勢を敗走させた。これらの度重なる敗北により義村の権威は失墜し、逆に村宗の勢力は拡大した。遂には播磨国に侵入して西播磨一帯を制圧し、義村を隠居させ幽閉し、大永元年(1521年)に殺害した。ここに浦上氏の赤松氏に対する下剋上となったのである。
 大永3年(1523年)、義村の子・赤松政村(晴政)を擁立した浦上村国と小寺則職を討つため、浦上村宗は播磨に出兵した。この戦いで、先陣を務めた能家の次男・四郎が村国の策略にあって討死すると、それを知った能家は自ら死地を求めて敵陣に突撃奮戦し、結果的に浦上軍に勝利をもたらした。この能家の奮戦を伝え聞いた室町幕府管領・細川高国は、名馬一頭と名のある釜を贈ったと伝えている。大永4年(1524年)に家督を子の興家に譲って出家した。
 享禄4年(1531年)に高国と主君・村宗が細川晴元と三好元長の連合軍に敗れて両者とも死去すると(大物崩れ)、それを機に砥石城で隠居したとされる。天文3年(1534年)頃、村宗を排除した赤松晴政の勢力により砥石城にて殺害されたという。宇喜多氏の家督は大和守(浮田国定)系に移った。

 浦上村宗が戦死する大敗、それに続く混乱の中で宇喜多能家が死に、その子興家も横死するなどして嫡流が没落する中、宇喜多氏の家督を継承し、宇喜多大和守として播磨国の浦上政宗に仕えた。
 江戸時代の軍記などで「異母兄・能家と折り合いが悪かったため、天文3年(1534年)島村盛実(島村盛貫)と手を結んで能家を討ち、砥石城主の座に就く(盛実が城主だった時期を経て、その後国定が砥石城主になったという説もある)」などと記されたが、惣領となったため必然城主になったもので、大半は創作である。
 天文20年(1551年)、備前に侵攻してきた尼子晴久への対応を巡って、尼子氏に通じた政宗に対し、弟である浦上宗景が備前東部の国人の意を受けて反尼子方として独立した後も、そのまま本家である政宗に与した。砥石城は浦上氏の重要な拠点の一つであり、砥石城奪取を狙う宗景は能家の孫・宇喜多直家に攻略を命じ、これ以後、国定は直家としばしば抗争を繰り広げる。若き日の馬場家職(二郎四郎)などの奮闘もあり度々撃退するも、弘治元年(1555年)から弘治2年(1556年)の間に、ついに砥石城は落城。この際に国定も討ち取られたという。しかし、所領であった豊原荘の半ばが直家に奪われたものの、大和守家自体は残った。

 

宇喜多興家 宇喜多義家(四郎)

 浦上氏家臣であった砥石城主・宇喜多能家の嫡男とされるが、近年存在も含めて否定されている。島村一族の元服前の子供衆と諍論の挙げ句、殺害されたと見られる。この際、喧嘩両成敗で子供衆も殺害されたという。ただ、この興家殺害事件では、記録に曖昧な点が多い。興家の名前が初めて登場するのは、直家の時代から150年ほど経った『和気絹』であり、延宝6年(1678年)に記された『西国太平記』では「父某が島村観阿弥に殺された」と記されている。
 別の説話では、大永4年(1524年)、父・能家より家督を譲られるが、天文3年(1534年)に父が島村盛実により砥石城を攻められ自害すると、興家は抵抗もせず城を明け渡し、子・直家を連れ備後国鞆津まで落ち延びる(この点で興家は暗愚とされた)。後に備前福岡の豪商・阿部善定に庇護されると、善定の娘を娶り、忠家,春家の男児2人に恵まれた。なお、『常山紀談』では興家は愚であったため、阿辺定善に養われて牛飼童となり、年経て召使ふ下女を娶わせて、子は直家,忠家,春家としている。
 天文5年(1536年)に病死した。なお、没年は天文9年(1540年)とする説もある。また家臣たちに暗愚と言われ、そのストレスで自害し、このことが家臣や嫡子・直家の混乱を招くと考えた正室や側妻,重臣らが自害したことを隠すため病死したと嘘をついたという説もある。興家は暗愚であったと後世評されるが、宇喜多の家名や幼い直家を守るためにあえて暗愚を装っていたという説もある。
 なお、近年発見された文書によれば、天文10年〜12年(1541〜43年)に山科言継が山科家領の年貢催促を晴政(赤松晴政あるいは中山晴政)と宇喜多和泉守に依頼している。この文書により、同時期まで能家が生きていた、あるいは能家の後継者の宇喜多和泉守が後継者として活躍していたことが確認でき、同時に興家の宇喜多家継承や能家との親子関係も疑問視されるようになった。

 幼い頃より利発であり、能家も愚鈍な興家より四郎に家督を継がせたいという考えもあったという。大永3年(1523年)、赤松政村(晴政)を擁立した浦上村国と小寺則職は浦上村宗の居城・三石城に攻め入る気配を見せたため、村宗は先手を打って四郎を先陣とする軍勢を播磨国へ派遣し、四郎ら宇喜多勢は村国勢と戦闘になる。浦上村国は宇喜多勢を抗禦しつつ戦線を後退させ、懐深くまで四郎を誘い込むと伏兵によって退路を遮断。四郎は討ち死にを遂げた。
 この四郎の死に深く落胆した能家は、この戦の後すぐに薙髪し隠居している。なお、大永4年(1524年)に書かれた「宇喜多和泉守能家入道常玖画像賛」には四郎の諱は書かれておらず元服前であった可能性も高い。

宇喜多直家 宇喜多春家

 軍記物に由来する通説によると、浦上村宗の敗死による混乱の中で、享禄4年(1531年)あるいは天文3年(1534年)、祖父・能家が暗殺され、宇喜多氏の家督は大和守家に移り、直家は父・興家と共に放浪の人生を送ったというが、興家も島村氏との諍いで横死して没落していた。村宗の跡を継いだ浦上政宗と備前を任されたその弟・宗景は山陽に侵略を繰り返す尼子氏への対応を巡って分離し国衆も二派に分かれて対立したが、直家は天神山城主・宗景に仕え、政宗派への攻撃を繰り返して頭角を現す。なお、近年の新説により、上記の通説には誤り(興家の死,嫡流は元より大和守家)が含まれていることが確認されている。
 軍記物では、直家は策謀に長けており、「祖父の復讐を果たすために島村盛実を暗殺したのを初め、舅である中山勝政や龍ノ口城主・穝所元常を殺害したとされている。いずれにせよ、直家は浦上宗景の直接の家臣というより傘下の国衆として勢力を拡大、その従属的同盟者となって政宗派を制圧し、大和守家も打倒して宇喜多氏の家督を奪回した。
 永禄9年(1566年)2月、直家は美作国へ進出した備中国の三村家親を、顔見知りの阿波細川氏の浪人・遠藤兄弟(俊通・秀清)を起用して鉄炮で暗殺した。永禄10年(1567年)7月、直家は明善寺合戦により、それまで備前西部に進出していた備中勢の駆逐にほぼ成功する。その後も、姻戚関係にあった金川城主の松田元輝・元賢親子、さらに岡山城主・金光宗高などを没落させ、その所領を自己の知行とするなど勢力を拡大し、浦上家で随一の実力者となった。
 永禄12年(1569年)、直家は将軍となった足利義昭や織田信長、西播磨の赤松政秀と結び、将軍に従わない主君・浦上宗景を倒すべく反旗を翻す。しかしながら、赤松政秀が青山・土器山の戦いで黒田職隆・孝高親子に敗北し、信長から派遣された池田勝正,別所安治なども織田軍の越前国侵攻のために戻されると、逆に宗景は弱った赤松政秀の龍野城を攻め降伏させてしまう。その後、毛利氏に対抗するために足利義昭の仲裁で和睦しており、この際に浦上氏から独立している。
 天正2年(1574年)、義昭が信長により追放されたことで、信長と繋がっていた宗景と再度対立した直家は、小寺氏預かりとなっていた宗景の兄・浦上政宗の孫・久松丸の存在に目をつけ、小寺政職に久松丸の備前入りを打診し、許可を得るとこれを擁立し宗景に対して攻勢を仕掛けた。今回は久松丸の擁立と直家の事前の諜略により、美作や備前国内での宗景配下の諸氏の離反が相次ぎ、更に宗景と犬猿の仲であった安芸国の毛利氏と結び、軍事面での不利を覆す。天正3年(1575年)、毛利氏による三村氏攻撃にも加勢するなど、協同体勢を取った。同年9月、宗景の腹心であった明石行雄ら重臣たちも内応させて、宗景を播磨国へ退け、備前国のみならず備中国の一部,美作国の一部にまで支配域を拡大した(天神山城の戦い)。
 しかしながら、宗景追放後も依然として備前国内には旧浦上家臣の勢力が残っており、また宗景や一門の浦上秀宗なども播磨国からこれらと密かに連絡を取り合い、度々備前に潜伏する旧浦上家臣の煽動した小規模な蜂起に悩まされることとなる。この状況は天正6年(1578年)12月の浦上残党が一斉蜂起し、幸島を占拠するという事件まで続くこととなる。浦上宗景・秀宗らが首謀者となったこの武装蜂起は一時期、天神山城を奪うなど勢いを見せ、鎮圧には数ヶ月を要した。しかし、これを期に備前国や播磨国に潜んでいた旧浦上の勢力を領内から放逐。更に宗景を援助していた美作鷲山城主の星賀光重を討ち、宗景の領主復帰の野望を打ち砕き、ついに宇喜多家の領内での安定した支配権が確立されることになった。
 やがて、織田信長の命を受けた羽柴秀吉が中国路方面に進出してくると、これに対抗し、天正7年(1579年)5月には信長に内応したとして東美作の後藤勝基などを滅ぼしたものの、6月前後に直家自身も毛利氏と手を切って信長に臣従する。以降、美作・備前各地を転戦して毛利氏と合戦を繰り返した。
 天正9年(1581年)2月14日、直家は毛利氏との戦いのさなか、岡山城で病死した。死因は「尻はす(大腸がんの一種)」とされる。 その死はしばらく隠されていたため、天正10年(1582年)1月9日が公式な忌日とされている。

 宇喜多忠家らと共に異母兄・直家を古くから助けた。島村盛実,浮田国定らに奪われた宇喜多氏の旧領である砥石城を永禄2年(1559年)に取り返した際には、城主を任され、永禄11年(1568年)には備前国金山城に入城した記録が残る。毛利氏,三村氏との最前線を任されていた。天正元年(1573年)には亀山城主となり、天正9年(1581年)の直家死後も宇喜多秀家を忠家と共に補佐し、朝鮮出兵にも参加したようである。天正9年(1581年)4月の毛利氏の忍山城侵攻の際には金山城を守備。毛利方の伊賀家久の猛攻を受け被害を受けたものの辛うじて耐え切り防戦に成功した。
 春家は忠家と同一人物とされる説がある。父・興家が備前福岡の阿部善定の下に逃れ、その後わずか2年で病死しているにもかかわらず、善定の娘との間に忠家,春家の2人を得ていること。春家が守備した砥石城,金山城,沼城などの拠点がことごとく忠家の記録と重なること、また資料によって入れ替わりが見られ、業績や合戦への参加記録も重なること。また、通称の「六郎兵衛」はごく一部資料のみで、古い資料には忠家と同じ「七郎兵衛」であること。子で直家の養子となった基家が忠家の子とされる資料も多いことなど、それをほのめかす事実が多い。兄・直家を評して「前に出る時は、常に死を覚悟し、鎖帷子を着込んでいた」と忠家が語ったとも、春家が語ったともされている。

宇喜多忠家 宇喜多基家

 天文2年(1533年)、宇喜多興家の子として生まれ、古くから兄の直家を補佐してその創業を助け、備前富山城を居城とした。
 天正3年(1575年)11月、兄・直家と共に備前国の金山寺を復興させる。復興について『遍照院中興縁起』は「就中旦那三宅朝臣直家宇喜多和泉守、同舎弟忠家」によって成就したと記しており、直家と忠家を並列させる記述から、忠家は家臣ではなく当主・直家の実弟として勢力を有していたとされる。
 天正6年(1578年)、毛利氏と共に尼子勝久や山中幸盛ら尼子軍が籠城する播磨国上月城を攻めた際には、病気の兄に代わって宇喜多軍の総大将を務めている(上月城の戦い)。その後、宇喜多は織田方へと離反し毛利と対峙することになるが、天正8年(1580年)に小早川隆景率いる1万5千の兵を辛川で迎え撃ち一方的な勝利を収め(辛川崩れ)、戦上手とされた隆景を破ったことにより毛利の攻勢を止めることに成功している。
 天正10年(1582年)1月に兄・直家が病死し、直家の嫡男・秀家が後を継いだ。しかし、秀家はまだ10歳と若かったため、忠家が後見役として秀家を補佐した。秀家の陣代として大将を務めることも多く、秀家からは1万石を与えられている。
 同年に起きた備中高松城の戦いでは秀吉方の黒田孝高らと築堤工事を行い勝利に貢献、毛利方との和睦により所領の画定に成功する。また、忠家は豊臣政権にも参画していて、天正14年(1586年)4月6日に豊後の大友宗麟が大坂城に登城して秀吉に拝謁した時、秀家とともに忠家もいたとされる。
 天正12年(1584年)、秀吉の推挙をうけ出羽守に叙任したが、天正13年(1585年)夏の四国攻め以前に忠家は出家していたといい、翌年夏から秋にかけて安津(安心)、式部卿法印と号した。また、同時期に秀吉の直臣に取り立てられ、家督を嫡男の宇喜多知家(後の坂崎直盛)に譲ったとされる。
 文禄元年(1592年)から始まる文禄の役では軍の総帥となった秀家の後見役として朝鮮半島に渡海した。
 慶長4年(1599年)、主君・秀家と、家老の戸川達安,忠家の子・知家や古参の花房職秀などが対立した宇喜多騒動と呼ばれる内訌が起きると、大坂で隠居した。
 慶長9年(1604年)1月3日、曲直瀬玄朔の診察を受けた。曲直瀬玄朔は自身の診療録である『医学天正記』に忠家について「久しく下血を患い今脱肛」と記している。慶長14年(1609年)、大坂で没したとされる。享年77。
 兄の直家を古くから補佐していたとされるが、反面、策謀家であった兄を信頼しておらず、直家の前へ出る時は着衣の下に鎖帷子を着けていたと言われるほど、兄を警戒していた。ただ、忠家には直家の近習やその「家老分」といわれた小野田四郎右衛門など、度々道理に合わない人斬りを行っており、実兄から命を狙われてもおかしくない短慮な行動も見られる。
 また、忠家と春家とを同一人物とする説がある(春家の欄参照)。

 永禄5年(1562年)頃、宇喜多春家または宇喜多忠家の子として生まれる。
 天正7年(1579年)、宇喜多氏が織田氏と和睦する際、宇喜多直家の名代として、織田信忠と面会したと伝わる。
 天正10年(1582年)2月、備前での八浜合戦において総大将として出陣し、毛利氏の穂井田元清と戦ったが、流れ弾に当たって討死した。この合戦には宇喜多春家と忠家も加わっていたが、春家も討死したとされる。
 基家は宇喜多氏の菩提寺とされる大賀島寺に葬られたが、岡山県玉野市八浜町大崎には与太郎神社も築かれ、いつの頃からか「与太郎様」と呼ばれ、足の神様として信仰を集めている。

宇喜多秀家 宇喜多秀高

 大名としての宇喜多氏最後の当主である。豊臣政権下の五大老の一人で、家督を継いだ幼少時から終始、秀吉に重用されていた。関ヶ原の戦いで西軍について敗れて領国を失うまで、備前岡山城主として備前,美作,備中半国,播磨3郡の57万4,000石を領していた。
 元亀3年(1572年)、備前岡山城主の宇喜多直家の次男として生まれた。天正9年(1581年)、父・直家の病死により家督を継いだ。
 天正10年(1582年)、宇喜多氏が当時従属していた織田信長により本領を安堵された。宇喜多軍は信長の命令によって中国攻めを進めていた羽柴秀吉の遠征軍に組み込まれ、秀吉による備中高松城攻めに協力した。ただし、秀家は幼少のため、叔父の宇喜多忠家が代理として軍の指揮をとった。また、戸川秀安や長船貞親,岡利勝(3人は宇喜多三老と呼ばれた)ら直家以来の重臣たちが秀家を補佐した。6月2日、秀家11歳のとき、本能寺の変で信長が死去し、秀吉と毛利輝元は和睦することになり、秀家はこのときの所領安堵によって備中東部から美作,備前を領有する大名になり、毛利氏の監視役を務めることとなった。
 元服した際、豊臣秀吉より「秀」の字を与えられ、秀家と名乗る。秀吉の寵愛を受けてその猶子となり、天正16年(1588年)以前に秀吉の養女(前田利家の娘)の豪姫を正室とする。このため、外様ではあるが、秀吉の一門衆としての扱いを受けることになる。
 天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いでは大坂城を守備し、雑賀衆の侵攻を撃退した。天正15年(1587年)、秀吉より、豊臣姓(本姓)と羽柴氏(名字)を与えられた。
 文禄元年(1592年)、文禄の役では大将として出陣し、李氏朝鮮の都・漢城に入って京畿道の平定に当たる。翌年1月、李如松率いる明軍が迫ると、碧蹄館の戦いで小早川隆景らとともにこれを破り、6月には晋州城攻略を果たした。文禄3年(1594年)5月20日、朝鮮での功により参議から従三位・権中納言に昇叙した(7月20日辞任)。
 慶長2年(1597年)、慶長の役では毛利秀元とともに監軍として再渡海し、左軍の指揮をとって南原城攻略を果たし、さらに進んで全羅道,忠清道を席捲すると、南岸に戻って順天倭城の築城にあたるなど活躍する。秀吉は明を征服後、秀家を日本か朝鮮の関白にしようとしていた。同時に、明の関白は豊臣秀次、九州には豊臣秀勝と述べている。朝鮮出兵で悪化した財政を再建するため、領民に重税を課そうとして重臣の反発を招き、後に御家騒動に繋がったとされている。
 慶長3年(1598年)、日本に帰国し、秀吉から五大老の一人に任じられたが、その8月、秀吉は死去した。
 秀吉没後の慶長4年(1599年)、重臣だった戸川達安,岡貞綱らが、秀家の新参者の奉行人・中村次郎兵衛の処分を秀家に迫るも、秀家はこれを拒否。宇喜多騒動となる。最終的には徳川家康の裁断で内乱は回避されたが、戸川,岡,花房ら直家以来の優秀な家臣団や一門衆の多くが宇喜多家を退去することになり、宇喜多家の軍事的,政治的衰退につながった。なお、上記の3名はこの後、家康の家臣となっている。
 秀吉没後、後を追うように義父の前田利家が慶長4年(1599年)に死去すると、加藤清正ら武闘派七将による石田三成襲撃事件が勃発し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いへと発展していく。秀家は西軍の副大将として、石田三成,大谷吉継らとともに家康断罪の檄文を発し、西軍の主力となる。伏見城の戦いでは総大将として参加し攻略、その後本隊と別れて伊勢国長島城を攻撃したのち、美濃国大垣城に入城し西軍本隊と合流した。関ヶ原の戦いにおいても西軍主力として戦い、東軍の福島正則隊と戦闘を繰り広げた。しかし同じ豊臣一門である小早川秀秋が東軍につき、西軍は総崩れとなり、宇喜多隊は壊滅した。
 秀家が西軍決起の発案者であるとの説がある。石田三成が大谷吉継に協力を求める前の7月1日、秀家が豊国社で出陣式を早くも行っていることをその根拠とする。なお、この出陣式に高台院(ねね)は側近の東殿局(大谷吉継の母)を代理として出席させ、ともに戦勝祈願を行っている。これにより、高台院が東軍支持だったという俗説には疑問が提示されている。
 関ヶ原の戦い後、宇喜多家は家康によって改易されたが、秀家は伊吹山中に逃げ込んだ。このとき、落ち武者狩りの矢野五右衛門に遭遇するが、五右衛門は秀家を自宅に約40日も匿ったとする話が伝わっている。秀家は京の太秦に潜伏、京都所司代の奥平信昌に発見されるが逃走に成功。同じ西軍側であった島津義弘などを頼って薩摩国に落ちのび、牛根郷に匿われた。後世の編である『常山紀談』では薩摩にのがれ剃髪して、成元さらに休復と号したとしている。このとき、秀家が島津氏に兵を借り、琉球王国を支配しようとしたという伝説が残っている。
 しかし、「島津氏が秀家を庇護している」という噂が広まったため、慶長8年(1603年)に島津忠恒(義弘の子)によって家康のもとへ身柄を引き渡された。なお、身柄引き渡しの際に一緒についてきた家臣2名を島津家に仕官させるが、このうちの一人の本郷義則は、薩摩の日置流弓術師範の祖、東郷重尚の最初の弓術の師匠となる。
 秀家は、島津忠恒,前田利長の懇願により死罪は免れ、駿河国久能山へ幽閉される。そして、慶長11年(1606年)4月、同地での公式史上初の流人として八丈島へ配流となった。
 八丈島では苗字を浮田、号を久福と改めた。『花房文書』『越登賀三洲志』によると、妻の実家である加賀前田氏や宇喜多旧臣であった花房正成らの援助を受けて50年を過ごし、高貴な身分も相まって他の流人よりも厚遇されていたと伝えられる。また、八丈島を所領としていた源家によく招かれ、宴を楽しんだ記録が残っている。源家は宗福寺の住職も兼ねているが、この寺院は宇喜多家の菩提寺である。
 また、元和2年(1616年)に秀家の刑が解かれ、前田利常から秀家に、前田家から10万石を分け与えるから大名へ復帰したらどうかとの勧めを受けるが、秀家はこれを断って八丈島に留まったとも伝わる。
 八丈島での生活は不自由であったらしく、『明良洪範』は、嵐のため八丈島に退避していた船に乗っていた福島正則の家臣に酒を恵んでもらったと伝える。このほか、八丈島の代官におにぎりを馳走してもらったという話を、『浮田秀家記』『兵家茶話』が載せている。
 明暦元年(1655年)11月20日、秀家は死去した。享年84。このときすでに江戸幕府第4代将軍・徳川家綱の治世で、関ヶ原に参戦した大名としては最も長く生きた。大名の宇喜多家は滅亡したが、秀家とともに流刑となった長男と次男の子孫が八丈島で血脈を伝え、のちに分家(浮田を称した)が3家興った。

 天正19年(1591年)、備前岡山の大名・宇喜多秀家の嫡男として生まれる。通称は孫九郎。慶長2年(1597年)、従四位下侍従に叙任され、豊臣姓を賜る。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属して敗戦し、父と共に薩摩の島津義弘を頼って落ち延びたが、慶長8年(1603年)に島津忠恒によって徳川家康の下へ身柄を引き渡された。
 慶長11年(1606年)、父の流罪に従い八丈島に流される。その後、百姓になり、八丈島奉行・奥山忠久(縫殿助)の娘を娶る。母の実家・加賀より毎年米70俵金70両を贈られ、それを流罪になった同族らで分配していた。
 慶安元年(1648年)8月18日、父に先立って死去。享年58。

宇喜多秀親 浮田正忠

 寛文9年(1669年)、八丈島にて宇喜多氏の嫡家(宇喜多孫九郎家)の嫡男として生まれる。
 父・秀高の没後、家督を継承。その後、地役人・菊池正武の娘イクノを娶り、1男・秀保をもうける。
 元禄17年(1704年)、曾祖父・宇喜多秀家の木像を、その胎内に秀家,秀高,秀正の和歌の直筆、及び法名を納めて宗福寺に安置する。
 正徳2年(1712年)、難破船の船員を原因とする天然痘の大流行がおこり、島内で1000人余りの死者を出す。宇喜多7家(孫九郎・忠平・半平・半六・半七・次郎吉・小平治)のうち、秀親(孫九郎家)を始め、浮田正忠(忠平家),浮田秀心(半平家),浮田継栄(半六家),浮田継真(半七家)の5家の当主も天然痘により死去した。

 延宝1年(1673年)、宇喜多嫡家(孫九郎家)の当主・宇喜多秀正の次男として生まれ、浮田忠平家として分家がなされた。しかし、正徳2年(1712年)、島内で大流行した天然痘により死去。享年40。