MY02:児島高徳 | 三宅豊背古 ― 児島高徳 ― 宇喜多宗家 | UT01:宇喜多宗家 |
リンク | UT02・UT03 |
宇喜多宗家 | 宇喜多久家 |
---|---|
「家」の字を通字とする宇喜多氏で確認できる最初期の当主。伝承ないし系図上は、三条信宗(傍流であるので「三条」の姓ではない可能性もある)の子。かなり不明な点が多いが、応仁の乱の戦火から逃れるために、地方へと下向する公家も多かったが、宗家もその中の一人ではないかと考えられている。赤松氏を頼り備前へと下向した宗家は、そこで児島高徳の孫にあたる児島高家の娘と入婿という形で婚姻関係を結び、宇喜多を称したという。すなわち、児島との血縁関係は皆無である。 しかし、西大寺文書や大永6年(1526年)邑久郡弘法寺 (瀬戸内市)への寄進状に名が残る以上、「宇喜多宗家」なる人物が存在したことは確実であり、久家を児島信徳の子とする説を信用するならば宗家が久家を養子にとったのではないかと考えられる。ただ、その場合は「信徳という男子が存在しているのに何故、宗家を養子にとったのか」等の疑問が残る。 |
宇喜多久家は実子、あるいは児島信徳の息子を養子縁組したのではないかと言われている。ただ、養子とすると、「何故、児島の嫡流として生まれたはずの久家をわざわざ余所者である宗家へ養子に出す必要があるのか?」等の矛盾が生まれる。だが、久家が宗家の実子であるという裏付けとなる史料も存在しない。いずれにせよ宇喜多宗家の子とも児島信徳の子とも言われるが定かではない。 |
宇喜多能家 | 浮田国定 |
明応5年(1496年)頃に、父・久家が宇喜多氏の代表として部下に宛てた書状などが存在しているが、明応8年(1499年)には既に宇喜多の代表は能家に代わっているため、家督相続はこの頃のことと推測される。当時、守護赤松氏に属する浦上氏と将軍直属の奉公衆である松田氏は残存する山名氏の影響力もあって備前国内で勢力を争っていた。明応5年(1496年)の赤松政則の死により後継者を巡って家中は三分し、浦上氏も各派に分かれ、明応8年(1499年)には浦上則宗と浦上村国とが合戦に及んだ。則宗は戦いに敗れ白旗城に篭城したが、村国の包囲で落城寸前になり、一族のものまでが則宗を見捨てて落ちのびようとするにいたった。この時、能家が義を説き、励ましたことで城兵は奮戦し、やがて村国は兵を引き揚げた。文亀2年(1502年)冬、能家は浦上軍の総大将として松田勢との戦に赴き、吉井川を越えた宍甘村付近で自ら敵将・有松右京進を討ち取るなどの奮戦をした。文亀3年(1503年)、能家は浦上勢と共に吉井川を渡り、松田勢と雌雄を決すべく上道郡に進入した。松田元勝も自ら兵を率い御野郡笠井山に陣を定め、旭川の牧石の河原で両軍は激突した。松田勢は山から軍を駆けおろして浦上勢を包囲する形となったが、これを見た能家は宇喜多全軍を率いて旭川をわたり救援に向かった。能家は兜に矢をうけ槍で突かれながらも奮戦し、乱戦を制して松田勢を敗走させた。 |
浦上村宗が戦死する大敗、それに続く混乱の中で宇喜多能家が死に、その子興家も横死するなどして嫡流が没落する中、宇喜多氏の家督を継承し、宇喜多大和守として播磨国の浦上政宗に仕えた。
|
宇喜多興家 | 宇喜多義家(四郎) |
浦上氏家臣であった砥石城主・宇喜多能家の嫡男とされるが、近年存在も含めて否定されている。島村一族の元服前の子供衆と諍論の挙げ句、殺害されたと見られる。この際、喧嘩両成敗で子供衆も殺害されたという。ただ、この興家殺害事件では、記録に曖昧な点が多い。興家の名前が初めて登場するのは、直家の時代から150年ほど経った『和気絹』であり、延宝6年(1678年)に記された『西国太平記』では「父某が島村観阿弥に殺された」と記されている。 |
幼い頃より利発であり、能家も愚鈍な興家より四郎に家督を継がせたいという考えもあったという。大永3年(1523年)、赤松政村(晴政)を擁立した浦上村国と小寺則職は浦上村宗の居城・三石城に攻め入る気配を見せたため、村宗は先手を打って四郎を先陣とする軍勢を播磨国へ派遣し、四郎ら宇喜多勢は村国勢と戦闘になる。浦上村国は宇喜多勢を抗禦しつつ戦線を後退させ、懐深くまで四郎を誘い込むと伏兵によって退路を遮断。四郎は討ち死にを遂げた。 |
宇喜多直家 | 宇喜多春家 |
軍記物に由来する通説によると、浦上村宗の敗死による混乱の中で、享禄4年(1531年)あるいは天文3年(1534年)、祖父・能家が暗殺され、宇喜多氏の家督は大和守家に移り、直家は父・興家と共に放浪の人生を送ったというが、興家も島村氏との諍いで横死して没落していた。村宗の跡を継いだ浦上政宗と備前を任されたその弟・宗景は山陽に侵略を繰り返す尼子氏への対応を巡って分離し国衆も二派に分かれて対立したが、直家は天神山城主・宗景に仕え、政宗派への攻撃を繰り返して頭角を現す。なお、近年の新説により、上記の通説には誤り(興家の死,嫡流は元より大和守家)が含まれていることが確認されている。 |
宇喜多忠家らと共に異母兄・直家を古くから助けた。島村盛実,浮田国定らに奪われた宇喜多氏の旧領である砥石城を永禄2年(1559年)に取り返した際には、城主を任され、永禄11年(1568年)には備前国金山城に入城した記録が残る。毛利氏,三村氏との最前線を任されていた。天正元年(1573年)には亀山城主となり、天正9年(1581年)の直家死後も宇喜多秀家を忠家と共に補佐し、朝鮮出兵にも参加したようである。天正9年(1581年)4月の毛利氏の忍山城侵攻の際には金山城を守備。毛利方の伊賀家久の猛攻を受け被害を受けたものの辛うじて耐え切り防戦に成功した。 |
宇喜多忠家 | 宇喜多基家 |
天文2年(1533年)、宇喜多興家の子として生まれ、古くから兄の直家を補佐してその創業を助け、備前富山城を居城とした。 |
永禄5年(1562年)頃、宇喜多春家または宇喜多忠家の子として生まれる。 |
宇喜多秀家 | 宇喜多秀高 |
大名としての宇喜多氏最後の当主である。豊臣政権下の五大老の一人で、家督を継いだ幼少時から終始、秀吉に重用されていた。関ヶ原の戦いで西軍について敗れて領国を失うまで、備前岡山城主として備前,美作,備中半国,播磨3郡の57万4,000石を領していた。 |
天正19年(1591年)、備前岡山の大名・宇喜多秀家の嫡男として生まれる。通称は孫九郎。慶長2年(1597年)、従四位下侍従に叙任され、豊臣姓を賜る。 |
宇喜多秀親 | 浮田正忠 |
寛文9年(1669年)、八丈島にて宇喜多氏の嫡家(宇喜多孫九郎家)の嫡男として生まれる。 |
延宝1年(1673年)、宇喜多嫡家(孫九郎家)の当主・宇喜多秀正の次男として生まれ、浮田忠平家として分家がなされた。しかし、正徳2年(1712年)、島内で大流行した天然痘により死去。享年40。 |