宇喜多忠家の子。もとは宇喜多(浮田)知家,宇喜多詮家と名乗った。当初は、宇喜多秀家に仕え、父・忠家が豊臣秀吉の直臣に取り立てられた天正14年(1586年)頃に家督を相続したと考えられている。 文禄3年(1594年)冬頃、詮家は大坂城下でキリシタンの講話を聞いてその教義に傾倒し、洗礼を強く希望した。それに対してヴィセンテは多くの教理を理解しなければ受洗は難しいと説明したが、詮家はできるだけ早く洗礼を受けることを求めて受洗し、パウロの洗礼名を名乗った。 文禄5年(1596年)、詮家は自身の屋敷にイエズス会の宣教師を招き、同僚の明石全登への宣教を依頼し、全登は受洗したという。同年10月に秀吉によって再度禁教令が発布され、京都や大坂の多くのキリシタンが捕縛され長崎へ送られて処刑されたが(長崎二十六聖人殉教事件)、この禁教令が発布された直後、詮家と全登は大坂の教会を訪れて2人のイエズス会宣教師を説得して退避先に逃がしたというエピソードがある。 詮家は従弟の宇喜多秀家から2万4000石の知行を与えられていたが、折り合いが悪かった。そのため慶長5年(1600年)1月に宇喜多氏において御家騒動が発生すると、主君の宇喜多秀家と対立することとなる。徳川家康の裁定によって、そのまま家康のもとに御預けとなり、直後に発生した関ヶ原の戦いでは東軍に与して本戦に参加し、戦後その功により石見国津和野に3万石を与えられ、津和野藩を立藩した。この時、宇喜多の名を嫌った家康より坂崎と改めるよう命があり、これ以降、坂崎直盛と名乗るようになった。 元和元年(1615年)の大坂夏の陣による大坂城落城の際に、家康の孫娘で豊臣秀頼の正室である千姫を大坂城から救出した。その功により、1万石を加増されて4万石となったが、この後、千姫の扱いを巡って、直盛と幕府は対立することになり、最終的に千姫を奪おうとする事件を起こしている(千姫事件)。 この千姫事件については、様々な説がある。「直盛が千姫を再嫁させること」を条件に直接家康の依頼を受けていたが、これを反故にされたとする説が知られているが、直盛が都合良く拡大解釈したとする説まである。直盛が千姫を直接救出したのではなく、千姫は豊臣方の武将である堀内氏久に護衛されて直盛の陣まで届けられた後、直盛が徳川秀忠の元へ送り届けた、ともいわれる。 また、事件の原因としてはこうした千姫の救出ではなく、寡婦となった千姫の身の振り方を家康より依頼された直盛が、公家との間を周旋し、縁組の段階まで話が進んでいたところに、突然、姫路新田藩主・本多忠刻との縁組が決まったため、面目を潰されたという説もある。 いずれの理由にしても、直盛は大坂夏の陣の後、千姫を奪う計画を立てたとされるが、その計画は幕府に露見していた。幕府方は坂崎の屋敷を包囲して、直盛が切腹すれば家督相続を許すと持ちかけたが、主君を切腹させるわけにはいかないと家臣が拒否し討たれたという説、柳生宗矩の諫言に感じ入って自害したという説がある。なお、柳生宗矩の諫言に感じ入ったという説に拠れば、柳生家の家紋の柳生笠(二蓋笠)は坂崎家の家紋を宗矩が譲り受けたとも伝わっている。いずれにしても、千姫問題で坂崎氏が断絶したことは確かなことである。 直盛は、藩政においては、側溝を増えたことによる蚊の大量発生に備えて、鯉の養殖を創始したと伝えられる。また、紙の原料であるコウゾの植樹を奨励するなど、のちの津和野藩に与えた影響は大きい。 関ヶ原の戦いに敗れ、改易された出羽横手城主の小野寺義道は、津和野で直盛の庇護を受けていた。直盛の死後、13回忌に義道はその恩義に報いるため、この地に直盛の墓を建てたと言われている。墓には坂崎出羽守ではなく徳川家に憚って「坂井出羽守」と書かれている。
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坂崎直盛の次男として誕生。兄に津川平四郎がいる。父・直盛は石見国津和野藩4万石の大名となるが、元和2年(1616年)にいわゆる千姫事件を起こして急死し、江戸幕府によって藩も改易されたため、石見国鹿足郡日原村に移住した。 元和9年(1623年)、死去。孫の重豊は三隅の士である中村家の娘を嫁にもらい、中村に改姓したと伝わる。
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