慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでの宇喜多氏の敗戦後、薩摩の島津義弘を頼って落ち延びたが、慶長8年(1603年)に島津忠恒によって徳川家康の下へ身柄を引き渡された。慶長11年(1606年)、父の流罪に従い八丈島に流され、明暦3年(1657年)3月6日に病死。享年60。 その後、秀継の子孫は庶流のため浮田姓を称し、宇喜多7家の中、浮田半平家,浮田半六家,浮田半七家の3家を興す。明治の恩赦により、宇喜多7家は八丈島を離れたが、のちに浮田半七家は帰島し、その子孫は東京都八丈支庁八丈町大賀郷に在住している。なお、秀継から11代後の末裔である浮田秀典(半平)は、八重根に港を開いた事績を讃えられ、浮田半平功労碑を建てられている。