MY01:三宅豊背古 | 三宅豊背古 ― 児島高徳 | MY02:児島高徳 |
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児島高徳 | 三宅高貞(高範) |
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高徳の出自に関する説は大別して二つある。皇胤説と渡来系説である。前者は、後鳥羽天皇の後裔という説と宇多天皇の後裔という説に分かれ、後者は天之日矛の後裔という説である。 |
三河国に定着し、子孫には江戸時代に田原藩主となった三河三宅氏が出たとされるが、三宅氏の出自についても別の説があり、伝えられている説(三宅氏系譜)にも疑問点が多く、備前三宅氏には戦国時代の三宅弥平次などが子孫であるとするには至らない。また、三宅氏全体についても『三宅氏正伝記』の正当性の疑問符や、天之日矛後裔説の信憑性に欠ける点などがあり、先祖や子孫であるとするには至らない。 |
三宅清宜 |
三宅清貞 |
1493(明応2)年、三宅加賀守清宜のときに井田野で挙母城の中條出羽守,寺部城の鈴木日向守,八草城の那須宗左衛門,上野城の阿部孫次郎らと共に約4,000の連合軍で松平宗家4代の松平親忠の約2,000の兵に戦いを挑むが惨敗した(第二次井田野合戦)。 | 16世紀になって、三宅氏は高橋荘東方の北部および足助西部にまで勢力を拡大し、松平・今川・織田氏と対立、あるいは連合,服属を繰り返している。亨禄3年(1530)、三宅政盛は松平清康に攻められ降伏。翌四年、清康は伊保城を攻め、城主三宅周防守清貞は戦いに敗れて広瀬城に逃走する。 |
三宅高貞 |
三宅政貞 |
天文2年(1533)三宅右衛門大夫高貞は中条・鈴木・阿倍氏らと連合して松平清康に対抗したが、敗走。 |
永禄9年(1558)元康に降り以後松平氏の家臣となった。 |
三宅正次 | |
元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでの徳川家康の敗走に従い、天正3年(1575年)の長篠の戦いにも従軍。天正10年6月2日(1582年6月21日)の徳川家康の伊賀越えに随行している。 |