OT02:大伴武日 | 大伴武日 ― 大伴 咋 | OT11:大伴 咋 |
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大伴 咋 | 大伴長徳 |
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用明天皇2年(587年)丁未の乱において、阿倍人,平群神手,坂本糠手らと共に物部守屋討伐軍に参加する。 |
舒明天皇4年(632年)第1回の遣隋使とそれに伴った唐使・高表仁を難波で出迎え、皇極天皇元年(642年)舒明天皇の殯宮では誄を蘇我蝦夷に代わって奏上している。 |
大伴兄麻呂 | 大伴駿河麻呂 |
天平3年(731年)尾張守に叙任される。天平9年(737年)主税頭として京官に復すが、美作守,美濃守と再び地方官を務め、その後、聖武朝末にかけて急速に昇進を果たした。 |
天平宝字元年(757年)の橘奈良麻呂の乱においては、謀反に加わったとして処罰を受け、その後長く不遇を託った。 |
伴 氏上 | 大伴潔足 |
嵯峨朝にて少内記・大内記を務める。淳和朝では尾張守や左少弁など内外の諸官を歴任。 |
聖武朝末から孝謙朝にかけて越前掾を務め、東大寺が越前国桑原庄の土地を購入した際の証書に関係者としてもその名が見える。天平宝字2年(758年)各地方に問民苦使が派遣された際、山陰道に派遣される。 |
大伴古麻呂 | 大伴継人 |
天平2年(730年)大宰帥・大伴旅人が任地で病臥した際に、遺言を受けに大伴稲公と共に九州に赴いている。天平4年(732年)遣唐留学生に選ばれ、翌年唐に渡る。帰国にあたって唐人の陳延昌に託された大乗仏典を日本にもたらす。 |
宝亀8年(777年)6月に遣唐判官として渡海、翌宝亀9年(778年)3月には皇帝の代宗への拝謁を果たす。同年9月に第一船に乗船して帰国の途に就くが、船は海上で風浪を受けて中央から真っ二つに分断して難破してしまう。大使・小野石根や唐使・趙宝英らが遭難する中、継人は入唐大使・藤原河清の娘・喜娘ら40数名と共に舳先に辛うじてしがみつき、何とか肥前国天草郡西仲嶋(現在の鹿児島県出水郡長島)に漂着する。同年11月に平城京に戻り復命を果たした。 |
伴 国道 | 伴 善男 |
延暦4年(785年)父・継人が藤原種継暗殺事件に関与し処刑され国道も連座して佐渡国への流罪となる。佐渡では国道が聡明で優れた人物であるとして、国守は彼を優遇して師友と仰ぎ、問題が発生した際には対処を決定させ、公文書も作成させるなど行政を補佐させたという。桓武朝末の延暦22年(803年)恩赦により平安京に戻る。 |
生誕地については父・国道の佐渡国配流中に生まれたとされるが、京で出生したとする説、あるいは元来は佐渡の郡司の従者で後に伴氏の養子になったという説がある。なお、大伴氏は弘仁14年(823年)の淳和天皇(大伴親王)の即位に伴い、避諱のために伴氏と改姓している。 |
伴 中庸 | 大伴三依 |
貞観8年(866年)閏3月10日の応天門の変では大宅鷹取により善男・中庸父子らが犯人であるとの報告がされる。これは中庸が生江恒山と占部田主に命令して、大宅鷹取を殴傷してその娘を殺害させたことを恨んでのものとされる。 |
天平元年(729年)頃に賀茂女王より贈られた和歌の内容から、神亀年間から天平年間初頭にかけて大宰帥・大伴旅人と共に筑紫に赴いていたと想定される。 |
大伴三中 | 大伴山守 |
天平8年(736年)遣新羅副使に任ぜられて、同年秋頃に新羅に渡る。しかし、当時新羅との関係は悪化しており、使節としての使命は果たせなかった。さらに、伝染病に感染してしまい、大使の阿倍継麻呂は帰途の対馬で病死、三中は病気が回復するまで入京を許されず、翌天平9年(737年)3月になって拝朝を行っている。なお、遣新羅副使としての功労により、従六位下から三階昇進して正六位上に叙せられている。 |
和銅7年(714年)従六位上から三階昇進して従五位下に叙爵。 |
大伴子君 | 大伴子虫 |
子君の名は、『日本書紀』の持統天皇7年(693年)3月乙巳(16日)条にだけ見える。その日に新羅への使者として息長老と大伴子君、学問僧弁通、神叡が絁(あしぎぬ)、綿、布を賜った。息長老は前年11月8日にやはり新羅への使者として川内連と共に禄を賜っているが、そこに子君は見えない。何かの事情で彼らの出発が遅れ、子君が連と交代したのではないかと推測される。出発、帰国の記事はない。 |
当初、子虫は長屋王に仕えてその厚遇を受けていたが、神亀6年(729年)に発生した長屋王の変にて、中臣宮処東人からの誣告を受け、長屋王は自殺させられた。 |
大伴馬来田 | 大伴道足 |
6月24日に大海人皇子が挙兵を決意して行動を起こすと、馬来田らは大海人皇子に味方することを決めた。吹負は大和に残って同志を募り、馬来田はまず吉野宮に行った。しかし大海人皇子は去った後で、馬来田は黄書大伴と共に皇子を追い、その日のうちに菟田(大和国宇陀郡)の吾城で追いついた。 |
大宝4年(704年)従六位下から四階の昇叙により従五位下に叙爵。以降元明朝から元正朝にかけて、讃岐守・弾正尹・民部大輔などを歴任。讃岐守在任時の和銅6年(713年)には、同国寒川郡の物部乱ら26人が庚午年籍以来良人であったところ、持統天皇4年(690年)の戸籍改定の際に誤って飼丁の籍とされたとして、良人に編入すべき旨を言上し許可されている。 |
大伴伯麻呂 | 大伴吹負 |
孝謙朝の天平勝宝2年(750年)従五位下に叙爵。天平勝宝4年(752年)東大寺の大仏開眼供養会で久米舞の舞頭を務め、同年上野守に任ぜられる。天平勝宝8歳(756年)聖武上皇崩御に際して山作司を務めた。しかし、藤原仲麻呂政権下では最末年の天平宝字8年(764年)正月に伊豆守に任ぜられた程度で官職に就いた記録に乏しい。 |
天智朝では兄・馬来田と吹負は病を称して自宅に退いた。天武天皇元年(672年)6月24日に大海人皇子が挙兵のために東に向かうと、馬来田はその後を追い、吹負は家に留まった。吹負は倭京の軍の指揮権を奪取し成功を大海人皇子に報じ、将軍に任命された。周辺地域の豪傑が吹負の下に集まり、近江を襲う作戦を立てた。 |
大伴牛養 | 大伴古慈斐 |
和銅2年(709年)従六位上から三階昇進して従五位下に叙爵し、翌和銅3年(710年)遠江守に任ぜられる。のち、和銅7年(714年)従五位上、養老4年(720年)正五位下と元明朝から元正朝にかけて順調に昇進した。養老5年(721年)には左衛士督として右衛士督・日下部老と共に、父母との離別が長期間に亘るため衛士の逃亡が多発していることを理由に、衛士の役務年数を3年に短縮するよう奏上し、認められている。 |
はじめ大学大允に任官したのち、天平9年(737年)従六位上から四階昇進して外従五位下に、天平11年(739年)内位の従五位下に叙せられる。翌天平12年(740年)聖武天皇の東国行幸に従って伊勢国鈴鹿郡赤坂の頓宮で従五位上、天平14年(742年)正五位下。天平19年(747年)従四位下、天平勝宝元年(749年)従四位上と聖武朝において順調に昇進し、天平勝宝年間に衛門督を務めた。また、この間の天平18年(746年)河内守在任時に、同国古市郡にて尾張王が白い亀を捕獲した旨を上申したが、これが瑞祥とされ従六位以下の諸官が一階の昇叙を受けている(正六位以上は田租の免除)。 |
大伴弟麻呂 | 大伴須賀雄 |
光仁朝末の宝亀10年(779年)従六位上から三階昇進して従五位下に叙爵し、翌宝亀11年(780年)衛門佐に任ぜられる。 |
大伴和武多麻呂または伴勝雄の子。官位は因幡権守。 |