A202:安牟須比命 | 安牟須比命 ― 大伴武日 | OT01:大伴武日 |
リンク | OT02・OT11・OT31 |
大伴武日 | 大伴室屋 |
---|---|
『日本書紀』垂仁天皇25年2月8日条では、武渟川別(阿倍臣祖)・彦国葺(和珥臣祖)・大鹿島(中臣連祖)・十千根(物部連祖)らと共に「大夫」の1人に数えられており、天皇から神祇祭祀のことを命じられている。 |
一般に流布している系図では大伴武以(武持,健持)の子とされるが、世代は合わない。子に談・御物がいたとする系図がある。佐伯連・佐伯宿禰の祖。 |
大伴 談 |
大伴金村 |
雄略朝の対新羅派遣軍の大将。雄略天皇9年(465年)3月、天皇の命を奉じて紀小弓,蘇我韓子,小鹿火宿禰ら他将と共に新羅を討った。新羅王・慈悲麻立干は数百騎の手勢で遁走、それを追撃し敵将を斬るも残兵は降伏せず、談は小弓と共に闘ったが、その夜に戦死した。また、その従者の津麻呂も談連が敵に殺されたと聞き「主人が死んだのに生きていても仕方がない」と再び敵中に飛び込み死んだという。 |
仁賢天皇11年(498年)仁賢天皇の崩御後に大臣・平群真鳥,鮪父子を征討し、武烈天皇を即位させて自らは大連の地位についた。武烈天皇8年(506年)武烈天皇の崩御により皇統は途絶えたが、応神天皇の玄孫とされる彦主人王の子を越前国から迎え継体天皇とし、以後、安閑,宣化,欽明の各天皇に仕えた。 |
大伴狭手彦 |
大伴糠手子 |
『日本書紀』によれば、宣化天皇2年(537年?)10月、新羅が任那を侵攻したため、朝鮮に派遣されて任那を鎮めて百済を救った。また同書によると、欽明天皇23年(562年?)8月、大将軍として兵数万を率いて高句麗を討伐、多数の珍宝を獲て帰還したという(一本には欽明天皇11年(550年?)とする)。 |
敏達天皇12年(583年)任那再興のために百済から招いた日羅が吉備児島屯倉に到着すると、糠手子は朝廷から遣わされて慰労を行う。また、阿斗桑市に居館を構えた日羅のもとに阿倍目・物部贄子と共に派遣されて国政について訪ねた。 |
大伴小手子媛 |
|
崇峻天皇との間に蜂子皇子と錦代皇女の一男一女を儲ける。 |