OT02:大伴武日 |
大伴武日 ― 佐伯戸難目 |
OT31:佐伯戸難目 |
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F931 |
佐伯丹継手 |
佐伯広足 |
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用明天皇2年(587年)4月に用明天皇が崩御するが、後継ぎが定まらず皇位は一時的に空位となる。5月になると大連・物部守屋は穴穂部皇子を天皇に立てようとして皇子に密使を送り、遊猟に出ると欺いて淡路へ来るよう願った。これに対し6月7月に大臣・蘇我馬子は炊屋姫を奉じて、佐伯丹経手,土師磐村,的真噛に対し、兵備を整えて速やかに穴穂部皇子と宅部皇子を誅殺するよう命じた。その日の夜半、佐伯丹経手らは穴穂部皇子の宮を囲む。まず衛士が楼上に登って穴穂部皇子の肩を射ると、皇子は楼の下に落ちて隣家へ逃走したが、衛士が灯をかかげて探し出し殺害した。なお、翌8日には穴穂部皇子と親しかった宅部皇子も殺害した。 |
天武天皇4年(675年)美濃王と共に竜田の立野(現在の奈良県生駒郡三郷町立野)に遣わされて風神を祭った。天武天皇10年(681年)遣高麗大使に任ぜられ、小使・小墾田麻呂と共に高句麗に派遣される。翌天武天皇11年(682年)使節の役目を果たして帰国する。 天武天皇13年(684年)八色の姓の制定により、連姓から宿禰姓に改姓。天武天皇14年(685年)国司・郡司や百姓の様子を確認するために各道に巡察使が派遣されると、広足は筑紫巡察使となった(この時の冠位は直広肆)。 |
佐伯長継 |
佐伯今毛人 |
大同4年(809年)嵯峨天皇の即位に伴い、従七位上から一挙に七階昇進して従五位下に叙爵。翌大同5年(810年)薬子の変が発生した際に左兵衛佐に任ぜられ、人心を鎮める名目で左近衛中将・巨勢野足と共に国府と鈴鹿関を守るために伊勢国に派遣されている。 その後嵯峨朝において、弘仁4年(813年)従五位上、弘仁7年(816年)正五位下、弘仁9年(818年)従四位下、弘仁13年(822年)従四位上と、順調に昇進する一方、左近衛少将・内蔵頭などを歴任した。弘仁14年(823年)正月には正四位下・蔵人頭に叙任されるが、同年4月の嵯峨天皇の譲位を受けて蔵人頭を辞任している。 淳和朝では左兵衛督を務め、天長3年(826年)には従三位に叙せられ公卿に列す。天長5年(828年)11月12日薨去。享年59。 |
天平14年(742年)聖武天皇が近江国甲賀郡紫香楽村に離宮を造営すると、紫香楽宮造営司主典に任ぜられて造営に携わる。翌年、聖武天皇が東大寺の建立を発願すると、領催検となって造営の管理推進と検閲を担当し、非常に巧みな方法で人民を督励・使役し聖武天皇に特別に信任して用いられた。 天平勝宝元年(749年)、引き続き東大寺次官を務めた。淳仁朝に入ると、天平宝字3年(759年)摂津大夫に遷るが、天平宝字7年(763年)正月に再び造東大寺長官に任ぜられる。この頃、今毛人は藤原宿奈麻呂,石上宅嗣,大伴家持と共に、専横を極める藤原仲麻呂の暗殺を企てていたが、密告により策謀が露見して4人とも捕らえられる。ここで宿奈麻呂が単独犯行を主張し、今毛人は断罪を逃れるものの、翌天平宝字8年(764年)正月に営城監として九州に左遷された。翌天平神護元年(765年)正月にかつて藤原仲麻呂派であった大宰大弐・佐伯毛人が左遷されると、今毛人は後任の大弐となり復権を果たす。また孝謙天皇の命を受けた吉備真備により天平勝宝8歳(756年)から怡土城築城が続いていたが、今毛人はこの事業を受け継ぎ同年3月には築怡土城専知官に任ぜられている。 宝亀6年(775年)第16次の遣唐大使に任命されるが、渡海できず帰京し病となる。そのため、朝廷は今毛人の渡唐を断念し、遣唐副使・小野石根に対して、大使を待たずに出発しその職務を代行するように勅したが船が遭難し死亡している。 天応元年(781年)桓武天皇の即位に伴って公卿に列し、さらに延暦3年(784年)参議、延暦4年(785年)正三位と桓武朝に入ると急速に昇進を果たした。またこの間の延暦3年(784年)長岡京遷都でも藤原種継らと共に造長岡宮使に任ぜられ宮殿の造営を担当している。延暦5年(786年)大宰帥に任ぜられて再び九州に赴任し3年に亘って大宰帥を務めた後、延暦8年(789年)正月に官界を引退した。 延暦9年(790年)10月3日薨去。享年72。 |
佐伯三野 |
佐伯 男 |
天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱が発生すると、三野は従五位上に叙爵されて孝謙上皇方として活動する。近江国高島郡三尾埼で三野は大野真本らと共に恵美押勝(藤原仲麻呂)軍と交戦し、これを多数殺傷している。 天平神護元年(765年)左衛士佐に任じられ、翌天平神護2年(766年)には乱での功労により功田20町を与えられる。天平神護2年(767年)には下野守に任ぜられ地方官に転じた。 宝亀元年(770年)光仁天皇の即位に伴って正五位下に昇叙される。宝亀2年(771年)従四位下に叙されると共に、陸奥守兼鎮守将軍に任官するが、蝦夷征討へ向けた大規模な軍事活動の実行には至らず、翌宝亀3年(772年)には早くも右京大夫に任ぜられ京官に復す。 宝亀10年(779年)2月6日卒去。 |
天武天皇元年(672年)6月に大海人皇子の挙兵を知った近江大津宮の朝廷は、各地に使者を派遣して鎮圧のための兵士を徴発した。このとき、佐伯男は筑紫大宰の栗隈王のもとに遣わされた。出兵を命じたものの栗隈王が以前大海人皇子に従っていたことから、彼もまた背くかもしれないと大友皇子は疑っていた。「従わない様子があったら殺せ」というのが佐伯男が受けた指示であった。 符(命令書)を受けとった栗隈王は出兵を断る。筑紫国の務めは国外への備えであり理守りを空けたときに変事があったら国が傾くというのが、栗隈王が述べた理由であった。このとき、栗隈王の二人の子、三野王(美努王)と武家王が剣を佩いて側に立っていた。佐伯男は剣を握って前に出ようとしたが、かえって自分が殺されるかもしれないと考え、断念してそのまま帰った。 天武天皇13年(684年)八色の姓の制定により佐伯氏は連から宿禰に改姓しており、男も同時に改姓したと想定される。 文武朝末の慶雲2年(706年)従五位下に昇叙する。元明朝では和銅元年(708年)大倭守に任ぜられ、翌和銅2年(709年)従五位上に昇進している。 |
佐伯麻呂 |
佐伯久良麻呂 |
文武天皇4年(700年)5月に遣新羅大使に任ぜられて新羅に渡航し、10月に帰国し孔雀や珍物を持ち帰った(この時の冠位は直広肆)。大宝律令における位階制の施行を通じて正五位上に叙せられ、和銅元年(708年)備後守を経て、和銅5年(712年)従四位下に至る。 養老7年(723年)3月14日卒去。 |
天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱終結後に行われた叙位において従五位下に叙爵し、天平神護3年(767年)豊後守に任ぜられる。 光仁朝に入り、宝亀2年(771年)民部少輔として京官に遷る。宝亀5年(774年)従五位上・近江介に叙任され再び地方官に転じる。宝亀7年(776年)5月初旬に出羽国志波村で蝦夷が反乱を起こしたことから、同月中旬に蝦夷征討のために陸奥鎮守権副将軍を兼ねる。また同年皇太子・山部親王の春宮亮に任ぜられている。 天応元年(781年)4月の山部親王の即位(桓武天皇)に伴って従四位下に再び昇叙され、5月には中衛中将に任ぜられている。その後、延暦4年(785年)従四位上に叙せられ、延暦5年(786年)には左京大夫に遷っている。 |
佐伯清岑 |
佐伯常人 |
延暦24年(805年)従五位下に叙爵し、翌大同元年(806年)但馬介に任ぜられる。 嵯峨朝の弘仁2年(811年)陸奥守を務めていたが、陸奥出羽按察使,文室綿麻呂と共に蝦夷の2村(爾薩体・幣伊)を征討することを上奏し、許されている。嵯峨朝末から淳和朝初頭にかけて順調に昇進した。 またこの間に地方官として上野守・常陸守を務めたが、上野守の際に加挙(公出挙で各国ごとに定めた貸し出す稲の額(例挙)以上の出挙)を行うが、国内に未納が多く発生し民は納めることができない租税に苦しんだ。常陸守でも同様に加挙を行うが、やはり民はこれに苦しみ、.地方官としての名声を得ることはできなかった。結局下僚の国司による朝廷への告発により、加挙は停止させられた。天長年間初頭に常陸守の任期を終えて帰京した後、天長4年(827年)4月26日に豊嶋の別邸で卒去。享年65。 |
天平9年(737年)従六位下から一挙に四階昇進して外位ながら従五位下に叙せられ、翌天平10年(738年)丹波守に任ぜられる。天平11年(739年)には早くも内位の従五位下となる。 天平12年(740年)8月末に大宰少弐・藤原広嗣が九州で反乱を起こすと、大将軍・大野東人らに続いて、9月5日に討伐のために勅使として九州へ派遣された。11月には乱が鎮圧された(板櫃川の戦い)。 その後も聖武朝後半にかけて順調に昇進し、天平21年(749年)正四位下に至る。またこの間、天平17年(745年)正月の紫香楽宮遷都に際して、急な造都であったことから本来その役割を担うべき石上・榎井両氏を召集できなかったため、兵部卿・大伴牛養と共に大楯と槍を宮の門に立てる役割を務めている。 |
佐伯石湯 |
佐伯伊太知 |
大宝2年(702年)持統上皇の伊勢国行幸に際し、伊勢国国司であった石湯は封戸10戸を与えられる。その後、民部大輔を務める。 和銅2年(709年)巨勢麻呂が陸奥鎮東将軍、石湯が征越後蝦夷将軍、紀諸人が副将軍にそれぞれ任じられ、東山道,北陸道の両道から蝦夷討伐を行なった。このとき石湯は節刀を授かり、その後の蝦夷征討では節刀を与えることが慣例となった。この討伐は関東から北陸にかけての諸国の兵士をもって3月から8月までの約5ヶ月間行なわれた。討伐を終えた石湯と諸人は天皇から直々に恩賞を与えられている。この討伐により越後北部一帯(越後国出羽郡)の支配を確立することに成功し、3年後の和銅5年(712年)出羽国が設置された。 |
天平宝字8年(764年)衛門少尉の官職にあったが、藤原仲麻呂の乱が発生すると孝謙上皇方として活動する。9月11日に恵美押勝軍が宇治から近江国に逃亡しようとしたため、山城守・日下部子麻呂と共に田原道(東山道の一部)を先回りして近江国に出ると、勢多橋を焼き落としその気勢を削ぐ。慌てた押勝軍が高島郡に向かうのを見て、伊多智らは馬を駆って先に越前国に入り、押勝の息子である越前守・恵美辛加知を斬殺した。翌9月12日には伊多智らは越前国に入ろうと愛発関に至った押勝軍と交戦、伊多智らが放った矢により押勝軍の数名を殺傷するなど押勝軍の越前入国を阻止する。 |
佐伯葛城 |
佐伯雄勝 |
延暦3年(784年)従五位下に叙爵し、翌延暦4年(785年)3月中衛少将、9月には右少弁に任官している。 延暦5年(786年)蝦夷征討の準備に向けた兵士検閲と武具点検ため、判官1名・主典1名と共に東海道に派遣された。翌延暦6年(787年)2月に陸奥介兼鎮守副将軍に任ぜられるが、間もなく陸奥介は藤原葛野麻呂に、鎮守副将軍は池田真枚に交代して、葛城は下野守に遷っている。さらに10月には民部少輔を兼ねており、この時点では在京であったと推定される。 延暦7年(788年)3月に入間広成,紀真人と共に征東副使に任ぜられ東北地方に遠征する。延暦8年(789年)3月末に遠征軍は衣川に陣を敷くが、葛城は陣中に没した。 |
皇太子・正良親王に仕え、親王から非常に親愛の情を受けた。天長10年(833年)に正良親王が即位(仁明天皇)すると短期間に多数の官職を歴任した。 承和15年(848年)正月に従五位下に叙爵されて右馬頭に任ぜられるが、同年8月信濃介として地方官に転じる。仁寿3年(853年)近江権介と仁明朝末から文徳朝にかけて地方官を務める。 天安元年(857年)5月に右近衛少将に任ぜられ京官に復帰する。翌天安2年(858年)2月に右馬頭に転じるが、同年3月24日に卒去。享年43。 |
佐伯子麻呂 |
佐伯大目 |
皇極天皇3年(644年)中臣鎌足によって葛城稚犬養網田と共に中大兄皇子に推挙されて入鹿討滅の企てに加わる。翌皇極天皇4年(645年)6月の蘇我入鹿暗殺に参加する。暗殺の場となる大極殿で、鎌足の命を受けた海犬養勝麻呂から剣を受け取るが、暗殺直前には食事が喉を通らずに吐いてしまうほど緊張したと伝えられる。暗殺実行時も当初は入鹿の威勢を恐れて進み出ることができなかったため、中大兄皇子が掛け声と共に飛び出して先に入鹿を切りつける。ここで子麻呂は驚いて席を立とうとする入鹿の片脚に斬りつけ、さらに葛城稚犬養網田と共に皇極天皇に事態の説明を求める入鹿の息の根を止めた(乙巳の変)。この変における功労により、子麻呂は封地40町6反を与えられた。 同年11月には中大兄皇子に命じられて、阿倍渠曽倍と共に40人の兵士を率いて、入鹿暗殺後に出家して吉野に隠棲していた古人大兄皇子を攻撃して、皇子とその子息を殺害したともされる。 天智天皇5年(666年)3月には、病気になった子麻呂を中大兄皇子が見舞い、元から従ってきた功績をほめ嘆いたという。やがて間もなく子麻呂は没したと思われる。 |
壬申の乱が勃発したとき大海人皇子の舎人であり、6月24日に皇子が吉野を出て東に向かった際に従った20数人の男の中にいた。乱の際に他にどのような行動をしたかについては伝わらない。乱の後、80戸の封戸を与えられた。『日本書紀』には12月4日に勲功ある人を選んで冠位を増し、小山位以上をあたえたとする記事があるので、大目もこれと同じかそれ以上の位を受けたと思われる。 天武天皇13年(684年)12月2日、佐伯連は他の連姓の49氏と共に宿禰の姓を与えられた。 持統天皇5年(691年)9月23日、持統天皇は佐伯大目に直大弐の位と賻物(葬儀の際の贈り物)を贈った。この日か直前に大目が死んだと考えられる。 |