<神皇系氏族>天神系

OT11:大伴 咋  大伴武日 ― 大伴 咋 ― 大伴安麻呂 ― 肝付兼俊 OT21:肝付兼俊

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肝付兼重 肝付兼興

 当初は肝付氏庶流・荻原氏(肝付氏初代肝付兼俊の弟・荻原兼任の子孫か)の家督を継いでいたが、兄で7代当主・兼尚が鎌倉に詰めていたため、兄の代理として領地経営を行い、やがて本家の家督も相続した。
 建武2年(1335年)末から南朝に与して各地を転戦。野辺盛忠や伊集院忠国らと共に、九州における南朝勢力の拡大に貢献した。正平4年/貞和5年(1349年)、北朝側の石井中務丞重信を攻めたが、まもなく病死した。明治45年(1912年)に従四位を追贈された。

 薩摩国の島津氏とは縁戚関係を結んでいたが、大永4年(1524年)、島津氏の分家である豊州家の岳父・島津忠朝から同族北原氏の居城であった大隅の串良城を奪還した。その後、居城を高山城に移し、島津氏と幾度も抗争して勢力拡大に努めたが、天文2年(1533年)に死去。享年42。
死後、子・兼続と兼興の弟・兼親(兼執)の間で家督争いが起こり、兼続が勝利し相続する。 

肝付兼続 肝付良兼

 天文2年(1533年)、叔父の兼親(兼執)を滅ぼして家督を継ぐ。兼続は隣国の島津氏との関係を重視し、島津忠良の長女・御南を妻として迎える一方で、妹を忠良の子・島津貴久に嫁がせて良好な関係を保とうとした。一方で天文7年(1538年)には高岳城を落とし大隅をほぼ平定した。天文22年(1553年)、嫡男・良兼に家督を譲って隠居し出家したが実権は握り続けた。
 永禄元年(1558年)、それまでの島津氏との関係が崩れて、兼続は日向の伊東氏と結んで島津忠親と戦った。永禄4年(1561年)には廻城を奪取して島津貴久と本格的に敵対し、竹原山の戦いで貴久の弟・忠将を討ち取って大勝した。
 永禄5年(1562年)には志布志城を落とすなど肝付氏の最大領土を形成したが、永禄9年(1566年)11月14日、島津貴久の反攻を受けて居城である高山城が落とされる。一説には隠居城の志布志付近で翌11月15日に自殺した(確証はない)とされる。享年56。  

 相州島津家当主で、島津家内の実力者であった島津忠良を烏帽子親として元服し偏諱を受け良兼と名乗る。永禄9年(1566年)の父の死後、家中の権力を掌握すると永禄11年(1568年)に反攻に転じ、まず伊東氏と同盟し飫肥を攻めて島津軍を撃退する。元亀2年(1571年)には伊地知重興の救援に向かい、島津軍を撃退した。しかし直後に病死した。享年37。名跡は娘婿となった弟・兼亮が継いだ。 
肝付兼亮 肝付兼護

 元亀2年(1571年)、異母兄・良兼の死去により、亡父の正室・御南や兄・良兼の正室である高城の意向を受け、良兼の次女を正室に迎え家督を継ぐ。しかし、元亀4年(1573年)、島津氏方の北郷時久と戦って敗れたうえ、伊地知重興,禰寝重良などが相次いで離反して島津氏に降ったため、これまで互角以上に渡り合った島津氏との立場は一変、天正2年(1574年)、島津氏に従属した。
 しかし、日向国の伊東氏と通じた上、夫婦仲が悪かったことで御南や高城に正室と離縁させられ、日向に追放された。寛永11年(1634年)死去。 

 父の死後、9歳で家督を相続する。慶長15年(1611年)、島津家久が琉球王の尚寧を連れ上洛した際、兼幸も島津氏家臣として同行する。この帰路の途中に乗船が暴風雨に遭い難破、兼幸は溺死した。享年20。
 当時兼幸は妻を娶っておらず嗣子もいなかった。兄弟も無かったため、肝付本家の血統は兼幸の死によって断絶することとなった。
 のち、兼幸の母・税所篤弘の長女が島津家久の娘・菊姫(島津久慶室)に仕えた功績により、肝付家の家名再興を許されることになったが、後継者は肝付氏とは遠縁の新納忠秀の子(新納氏は兼幸の母方の祖母の実家)・兼康が迎えられたため、実質的に兼幸で肝付家の本家は血統上の終焉を迎えたともいえる。
 その後の肝付家は、100石取りの薩摩藩士として存続した。