OT21:肝付兼俊 | 大伴武日 ― 大伴 咋 ― 大伴安麻呂 ― 肝付兼俊 ― 肝付兼盛 | OT22:肝付兼盛 | ● |
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肝付兼盛 | 肝付兼三 |
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肝付氏本宗家が島津氏に対抗したのに反し、兼盛は父・肝付兼演と共に島津貴久に従い、天文23年(1554年)の岩剣城攻めに参加し4人を討ち取る功を上げた。翌24年(1555年)にも蒲生氏を攻め、蒲生氏を支援した祁答院氏の領する帖佐の山田へ加治木の長浜衆を率いて進軍、大将の徳永与一左衛門・安田杢之丞ら23人を討ち取り、利を失った敵は帖佐城ならび山田城を棄てて本貫地である祁答院へと逃散した。姶良地方にまで勢力を伸ばしていた祁答院氏をその本貫地のみに封じ込めた功は大きく、貴久より西別府と有川の地を与えられた。永禄2年(1559年)には島津氏と盟書を交わす。 |
大隅国加治木城主。天正18年(1590年)、肝付兼寛が没すると、喜入肝付氏の家督は伊集院忠棟の三男・兼三が継いだ。兼寛には弟・兼篤もいたが、伊集院忠棟の強い求めで兼三が兼寛の養子となった。慶長4年(1599年)3月9日、父・忠棟が朝鮮から戻った島津忠恒に伏見で手討ちにされ、兄・忠真が日向国で反乱(庄内の乱)を起こすと肝付家を離れた。兼三の去った喜入肝付氏の家督は肝付兼篤が継承した。慶長7年(1602年)8月17日、忠真が討たれた日に伊集院一族と共に粛清された。 |
肝付兼屋 | 肝付兼善 |
喜入肝付氏は肝付氏12代・肝付兼忠の三男・兼光を祖とする庶流。元和5年(1619年)、肝付兼武の子として生まれる。寛永2年(1625年)、父の死去により家督相続する。 |
薩摩国喜入領主。中郷(現在の薩摩川内市中郷)地頭職を勤めた。家督相続前に文化5年(1808年)7月26日に生まれた島津斉興の娘・於富と婚約していたが、文化12年(1816年)に早世。 |