<神皇系氏族>天孫系

OE05:大江匡房  土師身臣 ― 大枝諸上 ― 大江千古 ― 大江匡房 ― 大江広元 OE07:大江広元


リンク OE08OE09・OE11・OE17・F977・{FU13
大江広元 大江親広

 久安4年(1148年)に生まれる。なお、『尊卑分脈』では嘉禄元年に83歳で死去し、生年は康治2年(1143年)としている。広元の出自は諸説あり、その詳細は不明。『江氏家譜』では藤原光能の息子で、母の再婚相手である中原広季のもとで養育されたという。しかし『尊卑分脈』所収の「大江氏系図」には大江維光を実父、中原広季を養父とし、逆に『続群書類従』所収の「中原系図」では中原広季を実父、大江維光を養父としている。当初は中原姓を称し、中原広元といった。大江姓に改めたのは晩年の建保4年(1216年)に陸奥守に任官した以後のことである。この折、改姓宣旨を願った申状が『吾妻鏡』閏6月14日の条に載っているが、その申状(建保4年6月11日付、宣旨は同年閏6月1日)では、養父・中原広季に養育された恩はあるが、大江氏の衰運を見過ごすことはできないとして実父・大江維光の継嗣となることを望んでいる。
 広元の兄・中原親能は源頼朝と親しく、早くから京を離れて頼朝に従っていた縁で広元も頼朝の拠った鎌倉へ下り、公文所の別当となる。さらに頼朝が二品右大将となり、公文所を改めて政所としてからは、その別当として主に朝廷との交渉にあたり、その他の分野にも実務家として広く関与した。『吾妻鏡』文治元年(1185年)11月12日の条によると、頼朝が守護・地頭を設置したのも広元の献策によるものであるという。
 また頼朝が強いつながりを持っていなかった土御門通親などの公卿とも独自の連絡網を持っていたことなども明らかになっている。こうしたことから、広元の存在は単に鎌倉における京吏の筆頭であるばかりではなく、政策の決定や施行にも影響力を行使し得る重要な地位を占めるものだったことが指摘されている。官位は頼朝死後も北条義時を上回る正四位を得ており、少なくとも名目的には将軍に次ぐ存在として遇されていたといえる。
 正治元年(1199年)の頼朝死後は、後家の北条政子や執権・北条義時と協調して幕政に参与した。建暦3年(1213年)の和田合戦に際しては、軍勢の召集や所領の訴訟において、広元が執権の義時とともに「連署」をした文書が存在する。承久3年(1221年)の承久の乱の際は嫡男・親広が官軍についたため親子相克する。
 鎌倉市西御門に大江広元の墓と伝えられるものがあるが、これは江戸時代に広元の子孫である毛利氏の長州藩によって作られた供養墓(詣り墓)であり、地元の言い伝えによると、鎌倉市十二所の山中にある五輪塔が本来の広元の墓とされている。

 源通親の猶子となって源親広と称した。『吾妻鏡』には正治2年(1200年)2月記事から右近大夫将監として登場する。はじめ鎌倉幕府2代将軍・源頼家に仕える。建仁3年(1203年)10月、将軍となった源実朝の元服に際し、北条義時と共にその道具を用立て饗応の手配を行った。11月鎌倉永福寺薬師堂の管理を命じられる。父が幕府の実力者であったことから実朝に寺社奉行として重用され、北条氏からも執権義時の娘婿として厚い信任を受けた。承元3年(1209年)頃から遠江守となり、この頃から政所別当の一人となる。
 建保3年(1215年)4月、京都駐在の御家人の監督を命じられ、同年6月将軍・実朝の代理として栄西の臨終に立ち会う。この年から民部権の少輔となる。建保4年(1216年)6月父の大江復姓に合わせて大江姓に戻った。建保5年(1217年)5月武蔵守となる。また政所家司の一員を務める。  建保7年(1219年)1月、実朝が公暁に暗殺されたため、出家して蓮阿と号す。同年2月、伊賀光季と共に京都守護に任じられて上洛した。
 承久3年(1221年)の承久の乱では後鳥羽天皇の招聘に応じて官軍側に与し、近江国食渡にて幕府軍と戦ったが、敗れて京都に戻った。
  戦後は行方をくらましたが、祖父の多田仁綱が目代を務める出羽国寒河江荘に隠棲していたと言われている。また、乱後に離別させられた竹殿は、後に通親の子・土御門定通の側室となっており、定通の甥にあたる後嵯峨天皇の即位と深く関わることになる。
 承久の乱の後は中央の史料からは姿を消す親広だが、隠棲したとされる寒河江荘には足跡が残る。父・広元が嘉禄元年6月10日(1225年7月16日)に逝去すると、息子・佐房に使いを送り阿弥陀如来の尊像を彫刻させ、胎内に広元の遺骨を納めて出羽国寒河江荘吉川の阿弥陀堂に安置したという。別当を多田仁綱がつとめ、 天福2年(1234年)多田仁綱が亡くなると阿弥陀堂脇に葬られた。仁治2年(1241年)6月吉川の館の鬼門(東北方)にこの阿弥陀堂を移築し、仁治2年12月15日に親広が亡くなると、自身も阿弥陀堂の傍らに葬られたという。
 なお、南北朝期に成立した『師守記』によれば、安貞元年(1227年)5月15日に関東から上洛する途中、尾張で没したという。

上田佐房 大江広時

 承久3年(1221年)の承久の乱で父・親広が後鳥羽上皇側に付くと祖父・大江広元と共に鎌倉幕府側に付く。東海道方面軍に加わり6月6日、北条時氏,北条有時に従い摩免戸の渡しを渡る。上皇方は矢も射ずに敗走し、鎌倉方・伊佐行政が山田重忠を破り、佐房は独り踏みとどまった鏡久綱と戦いこれを討ち取った。6月8日、摩免戸で敗れた足利秀康,筑後有長らが京都へ着き、御所中騒然となったため、仲恭天皇らは比叡山へ避難した。9日、北条義時が殺害されたという噂が流れ、翌10日天皇らは京都へ戻った。12日、父・大江親広が上皇側として2,000騎を率いて出陣、食渡に布陣した。しかし、14日、宇治川合戦で上皇軍が大敗したという報を受け、兵を残して逐電した。
 戦後は信濃国上田荘を与えられ幕府中枢で要職に就く。承久4年(1222年)正月、垸飯で御剣を奉じる。貞應2年(1223年)7月、北条政子の新邸引越しに脇侍し9月、三寅(藤原頼経)の一条実雅邸訪問に従うなど、将軍および北条氏に側近として仕える。翌1224年、伊賀氏の変が起こり、その後、左近将監(7月)、左近大夫将監(12月)となる。嘉禄元年(1225年)5月、鶴岡八幡宮で1,200人が納経する僧供養を取り仕切る。12月、将軍頼経の引越しでは諸大夫筆頭となる。
 寛喜2年(1230年)、将軍・頼経の内々に行われた竹御所との結婚の儀に供奉する。将軍および正室・竹御所にそば近く仕えたが、文暦4年(1234年)竹御所が死去した。
 宝治元年(1247年)に嫡男・佐泰を失う。宝治2年(1248年)の記事を最後に中央の史料から姿を消す。上田氏の祖となるが、上田氏は弘安8年11月17日(1285年12月14日)の霜月騒動で没落した。

 父・大江親広が承久の乱で敗れたものの、その時点で祖父・大江広元が健在だったこと、兄・大江佐房が乱で戦功を挙げたことから幕職に就く。『吾妻鏡』での初出は嘉禎4年(1238年)で、少輔木工助として将軍に随行して上京した。延応元年(1239年)7月、佐房と共に久遠寿量院持仏堂で信濃法印に布施を渡している。同年8月の祈祷においても布施を渡す役をしており「諸大夫」とあることから、この時点で従五位だったことがわかる。
 親広没後は次兄・大江高元が寒河江荘を受け継ぐものの建長6年(1254年)30歳(38歳とも)で早世したため、高元の室・藤原親実の娘が一時相続した後、相続するに至る。相続の際、寒河江荘北方(北寒河江荘)は闕所となり北条氏の所領となってしまう。寒河江荘には目代を送り自身は鎌倉にあったものとみられる。

大江政広 大江元頼

 父・大江広時が弘長2年(1262年)に亡くなると家督を継ぐが、寒河江荘には目代を送り、自身は鎌倉にあったものとみられる。文永3年(1266年)大沼大行院(山形県朝日町)に大鐘一口を奉納する。弘安の役に際しては同院で調伏を行っている。文永9年(1272年)二月騒動で母方兄弟の小山氏が縁戚関係を結んでいた北条時輔が討たれる。建治元年(1275年)5月、六条八幡新宮造営費用として15貫を納めた。
 政広は建治3年(1277年)に亡くなり、跡を嫡男・元顕が継いだ。

 建治3年(1277年)、父・大江政広の死により家督を受け継ぐ。当初、鎌倉にあり、幕職に就いたとみられるが、弘安8年(1285年)鎌倉幕府内の内訌であった「霜月騒動」の結果、大江氏の一族である大江泰広,子の泰広・泰元らが討死しており、執権北条氏の圧力を避けるため寒河江荘に移ったと考えられている。焼失した慈恩寺の再建などに取り組み、荘内の支配を確立していったとみられる。
 元亨2年(1322年)3月18日に亡くなり、跡を長男の大江元政が継いだ。嫡男以外の子らは寒河江大江氏庶流の柴橋氏・高松氏の祖となった。

大江元政

 寒河江大江氏は大江元政の父・大江元顕の頃、霜月騒動による執権北条氏の圧力を避けて、寒河江荘に移ったと考えられている。焼失した慈恩寺の再建などに取り組み、荘内の支配を確立していったとみられる。元亨2年(1322年)元顕が亡くなると元政が跡を継いだ。
 正慶2年(1333年)、新田義貞により鎌倉が攻撃されると、同族の小沢貞広・親顕が執権・北条高時に殉じて討死した。貞広の弟・懐顕や親顕の子・顕広は寒河江氏を頼って落ち延びてきている。南北朝時代になると南朝に味方し、建武2年(1335年)、大江元政は陸奥守鎮守府将軍・北畠顕家とともに上京して足利尊氏軍と戦い京より駆逐した。翌建武3年(1336年)1月、再度の入京を目指す尊氏を摂津国で破り、尊氏は九州へと落ち延びる(豊島河原合戦)。
 北畠顕家が延元3年(1338年)に摂津で戦死すると、南朝は顕家の弟・北畠顕信を近衛中将兼陸奥介鎮守府将軍として下向させ、顕信は陸奥国を転戦する。元政は出羽で南朝側として戦闘に参加したと考えられ、観応2年/正平6年(1351年)の時点で、以前北条氏に没収された北寒河江荘の回復を果たしている。文和2年/正平8年(1353年)、顕信が陸奥国を追われ出羽国へ根拠地を移すと、北朝側も延文元年/正平11年(1356年)に斯波兼頼を山形に下向させる。この年、慈恩寺で本堂・釈迦堂以外を失う火災が発生するが、大規模な修復の記録は残っていない。 延文3年/正平13年(1358年)4月足利尊氏が没すると、南朝側の活動が全国的に活発になる。8月、北畠顕信は鳥海山大物忌神社に願文を捧げ、南朝側の諸将を糾合して決起し、寒河江大江氏もこれに応えたとみられる。大江元政は延文4年/正平14年(1359年)斯波兼頼と争い、弟の懐広・顕広とともに討ち死にしたという。 跡を長男の大江時茂が継いだ。