<神皇系氏族>天神系

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中原致時 平 康頼

 村上朝の応和3年(963年)、明経得業生に補せられると、康保3年(966年)に明経試を課され、翌康保4年(967年)には及第する。
 兵部少録・造酒権佑を経て、円融朝の天元3年(980年)権少外記に任ぜられると、天元4年(981年)少外記、永観2年(984年)大外記と外記局で順調に昇格するが、同年10月に従五位下・肥前守に叙任されて地方官に遷った。
 一条朝初頭の永延元年(987年)明経博士に任ぜられると、永祚元年(989年)、従五位上・大外記に叙任されて再び外記局に戻る。大外記の傍らで明経博士・主税権助を兼ねる一方で、丹波介・播磨介などの兼国にも与り、この間の正暦4年(993年)、正五位下に昇叙されている。
 長徳4年(998年)、信濃守に任ぜられ外記局を去ると、長保3年(1001年)造宮の功労により従四位下と四位に昇り、寛弘元年(1004年)に従四位上・伊勢守に叙任された。
 寛弘8年(1011年)7月8日、卒去。

 

 十代で平保盛(平清盛の甥)の家人となる。保盛は長寛元年(1163年)正月24日付で、越前国の国司に任ぜられており、18歳の康頼も越前国に派遣されて、この頃に主君から平姓の賜与を受けたと思われる。保盛は仁安元年12月30日(1167年1月22日)付で、尾張国の国司に転任し、康頼を目代に昇格させて派遣した。
 尾張国知多郡野間の荘には源義朝(源頼朝の父)の墓があったが、誰も顧みる者も無く荒れるに任せていた。康頼はこの敵将の墓を修理して堂を立て、六口の僧を置き不断念仏を唱えさせ、その保護のために水田三十町歩を寄進した。もちろん、国司・保盛の許可を得てしたことであろうが、当時、この噂は京にも聞こえ後白河上皇の耳にも達して、平康頼なる人物は目代ながら、武士道の礼節をわきまえた頼もしい若者との深い印象を与え、近習に取立てた。また清盛はじめ平家一門の人々からも、敵将の墓を修理して保護した康頼を武士の鑑、一門の名を高めたとして好評判であった。任官と同時に、上皇の近習にとり立てられ半月もたたない仁安4年(1169年)1月14日、後白河上皇12回目の熊野参詣には、早くも近習として供を命ぜられている。
 また嘉応元年(1170年)4月20日、後白河上皇は、平清盛と同伴で東大寺に参詣したが、康頼ら7人の衛府役人が随行している。また後白河上皇は今様を非常に愛好しており、多くの公家や官人にも教えていたが、康頼も門弟の一人で、しかも美声で声量もあり、抜きん出た歌い手であった。その点でも、上皇から特に目をかけられていたようである。検非違使・左衛門大尉に任ぜられ、平判官と称した。
 安元3年(1177年)6月には、鹿ケ谷の山荘で藤原成親,西光,俊寛らの平家打倒の密議に参加。しかし、多田行綱の密告により策謀が漏れて康頼も捕縛され、俊寛,藤原成経と共に薩摩国鬼界ヶ島へ流された。『平家物語』によると、信仰心の厚かった康頼は配流にあたり出家入道し性照と号した。配流先で京を懐かしむ日々の中、成経と康頼は千本の卒塔婆に望郷の歌を記し海に流すことを思い立つ。一本の卒塔婆が安芸国厳島に流れ着き、これに心を打たれた平清盛は赦免を行う。治承2年(1178年)に赦免船が来島し、成経と康頼は赦免され京へ戻るが、俊寛は許されなかった。康頼は帰京後、伯母が尼となって身を寄せていた東山の雙林寺で、仏教説話集『宝物集』を編集執筆する。
 平家滅亡後、文治2年(1186年)には源頼朝によって、阿波国麻殖保の保司に任命された。康頼は京より3人の家人を伴い森藤の地に下向した。康頼はすでに41歳になっていた。
 康頼は承久2年(1220年)頃、自らの生涯75年間におきた出来事を記録し、一通を京都の雙林寺へ送り、一通は玉林寺に残し、その年に大往生した。方一丁の土地通称一町地で火葬される。遺言で家人の鶴田氏が康頼神社を建て主君を神として祀り代々祭司を務めた。康頼神社の脇に墓がある。遺骨は分骨されて、京都東山の雙林寺にも埋葬された。康頼神社の脇に三基の五輪塔があるが、康頼の母,康頼,俊寛の3人のものという。清盛の怒りが解けず、鬼界が島に一人残された俊寛は、数年後に都から、はるばる訪ねて来た弟子の有王の世話をうけながら、自ら絶食して生命を絶った。有王は主人を火葬して骨を持ち帰り、高野山に埋葬したが、康頼はその分骨をゆずり受けて、壇の下に葬ったとも言われている。

平 清基 平 俊職

 康頼の嫡男で承元年中に保司職を継承した。鎌倉3代将軍・源実朝が死去する頃には、幕府は執権の北条氏が頼朝以来の有力な御家人・門葉を排除し、実権を掌握していた。後鳥羽上皇は諸国の広大な荘園を再び取り返そうと、全国の武士に北条義時追討の院宣を下した。上皇側の予想に反し思うように兵は集まらず、圧倒的な鎌倉の大軍を支えることができず、それぞれの国元へ逃げ帰った。この戦いで阿波の佐々木経高と高重の父子は討死して果て、600余の兵のほとんどは阿波へ帰らなかった。阿波国に対しては佐々木氏に代わって、小笠原長清を阿波守に任じた。長清は阿波へ入り居城を攻め、ほとんど兵のいない鳥坂城は炎上し、経高の2男・高兼は城を捨て山中に逃げたが、小笠原氏は高兼の生存を許さなかったため、一族と家臣達が百姓となって、この地に住むことを条件に、自ら弓を折り腹を切って自害した。神山町鬼篭野地区にある弓折の地名は、高兼が弓を折って自害した所で、同地に多い佐々木姓は、かつての阿波守護職・近江源氏佐々木経高の後裔達であるといわれる。
 一方、麻植保では清基が保を没収され、保司職を解任された。そして清基に代わって小笠原長清の嫡男・小笠原長経が阿波の守護代及び、麻植保の地頭に補任された。理由は清基が麻植保の兵をつれて、佐々木氏に従って上皇軍に加わっていたというのである。事実、清基は、承久の乱に上京していたが、上皇軍には加わらなかったと申し立て、保司を解任されたのを不服として、長経と論争をおこし、無実を鎌倉へ訴えて、長経と対決裁判をした。長経の申し状によれば、清基は承久3年夏、上皇方へ加わるために上京し、和田朝盛と共に戦場へ赴いたと申し立て、証拠の書状などを提出した。これに対して清基は、叔父の中原仲康が、和田朝盛と朋友であったから対面したが、かの兵乱には自分はもとより、麻植保の衆も参加していないと主張した。しかし長経の提出した証拠のなかに、清基から経高に出した手紙があり、軍に加わる内容が書かれていたため、裁判の結果は清基が敗れた。

 3代目の平俊職は官職を失って浪々の身となり京に出たが、承久の乱の敗者には仕官先もなく、賊徒の輩と徒党を組み、伊具四郎を毒矢で射殺し捕らえられた。首謀者の諏訪刑部左門は斬首となり、俊職と牧左衛門は、昔、祖父の康頼が流されていた鬼界ヶ島に流されて消息を絶ち、森藤の平家は絶家した。
坂上明兼 坂上兼成

 中原氏嫡流は明経道(儒学)を家学とし外記の上首である局務を世襲したが、その庶流で有象の曾孫である範政は、明法道(法学)を家学とする一流の流祖となった。その明法道系統の中原氏は、明兼の弟である中原範光が継ぐことになる。
 なお、父の範政は、宮内庁書陵部蔵『諸家系図』所載の中原氏の系図では、中原俊光の実子とされている。その一方で、範政は、『続群書類従』所載の坂上氏の系図では、坂上定成の実子とされている。通説的には前者の説を採用し、範政・明兼父子は血筋上は中原氏なのだとする場合が多い。
 永久元年(1113年)頃、数え35歳前後で明法道の首位である明法博士となる。のち叙爵されて貴族となり、刑部省大判事などを務めた。平安時代中期には、明法道=法学は一時期衰えていたが、後期になって院政期に入った当時、土地の領有や売買,貸借に関する訴訟問題が顕著になったことから、法学の必要性が再認識されるようになった。このような時代の要請に応じて明兼が著した(もしくは嫡子の兼成・嫡孫の明基が引き継いで完成させた)『法曹至要抄』は、律令を事実上代替する現行法としての役割を果たした。
 久安3年(1147年)に数え69歳で卒去。跡を兼成が継ぎ、さらに次代が明兼同様に明法博士として大成し『裁判至要抄』を著した明基である。 

 久安3年(1147年)正六位上・防鴨河使主典の時、左衛門少志に復任。久安5年(1149年)に明法博士に任じられて大判事を兼ねる。また、仁平2年(1152年)には備中大掾を兼務する。左衛門少尉も歴任した。
 保元元年(1156年)に発生した保元の乱の後に、崇徳上皇方に付いた人々の処分について明法勘文を提出した。また、平治元年(1159年)、平治の乱の緒戦で藤原信頼によって捕えられた信西の子・藤原成憲の身柄を預かったという。

中原師任

 長保3年(1001年)、寮試に及第すると、擬文章生,文章生を経て、三条朝末の長和4年(1015年)に式部録に任官。
 後一条朝に入り、寛仁5年(1021年)に権少外記に補せられると、治安2年(1022年)少外記,万寿元年(1024年)正月に大外記と外記局で昇任していくが、同年従五位下に叙爵して外記の職を去った。
 長元3年(1030年)、天文密奏宣旨を受け、天文密奏の労により長元5年(1032年)主税権介、長暦4年(1040年)従五位上に叙任される。長久2年(1041年)正五位下・大外記に叙任されて、父・致時に続いて大夫外記となると、備後権介・伊予介の兼国に与ったほか、関白・藤原頼通家の政所別当も務めた。
 後冷泉朝の永承3年(1048年)、従四位下・安芸守に叙任されて大夫外記を去る。安芸守の任期終了後の天喜元年(1053年)に主計頭として京官に復した。
 康平5年(1062年) 正月6日卒去。享年80。