<神皇系氏族>天神系

NK02:中原致時  磯城黒速 ― 十市磐古 ― 中原有象 ― 中原致時 ― 中原範光 NK03:中原範光

 

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勢多章任 勢多章賢

 若年から検非違使道志に任官し、検非違使尉,大夫判官と出世を重ねる。
 正和3年(1314年)頃、前太政大臣・前関東申次である西園寺実兼の家司を務めた。この記録は、明法家が特定の公卿に侍すこともあった実例として興味深いものである。
 律令の参考書である『金玉掌中抄』を著述。約70の法律事項に律令格式本文と家学によって註解したもので、鎌倉時代の公家法の思想を伺うことができ、また律の逸文を含むことから貴重である。
 元応2年(1320年)、花園院に律令を講じた。元亨元年(1321年)に卒去。

 確実な生年は不明だが、弟の真恵が興国7年/貞和2年(1346年)に数え65歳で死去していることから逆算すると、少なくとも弘安5年(1282年)以前である。一方、真恵の生年を弘安2年(1279年)とする説もある。
 正応4年(1291年)に衛門少志となり、同5年(1292年)に右衛門尉。正和元年(1312年)以前に出家し、是円房道昭を名乗る。後醍醐天皇の建武の新政では雑訴決断所に参画。還俗せず、法体のまま朝廷に出仕した。
 後醍醐天皇と足利尊氏の戦いでは足利方についた。延元元年/建武3年11月7日(1336年12月10日)には、尊氏の諮問を受け、他の有識者と共に室町幕府の基本法となる『建武式目』を勘申した。この式目は、形式的には「諮問への答申書」という形を取ってはいるが、実質的には是円とその弟の真恵が中核となって起草した制定法である。
 没年も不明だが、『師守記』紙背文書「文殿廻文」によれば、正平3年/貞和4年(1348年)7月には存命していた。

勢多真恵

 後醍醐天皇が建武の新政を開始すると、建武元年(1334年)8月に雑訴決断所が8番制に再編された際、その5番に務めた。次兄の是円も2番に属している。延元元年/建武3年11月7日(1336年12月10日)、兄の是円と共に室町幕府の基本法『建武式目』を足利尊氏に勘申した。
 正平2年/貞和3年5月16日(1347年6月25日)に数え69歳で没。一方、興国7年/貞和2年(1346年)に数え65歳で没という説もある。
 なお、かつては二階堂氏出身とする説があったが、誤りと判明している。