朱雀朝の承平元年(931年)明経学生であったが、准得業生可課試宣旨を受ける。兵部少録・直講を経て、天慶5年(942年)権少外記に任ぜられると、 天慶6年(943年)少外記、天慶9年(946年)大外記と外記局で昇格してゆき、天慶6年(943年)には故・藤原高子(清和天皇妃)の皇太后復位の儀の際に、外記として事務・書記を行っている。またこの間の天慶8年(945年)には首姓から宿禰姓に改姓した。 天慶9年(946年)4月に村上天皇の即位に伴って従五位下に叙爵されるが、7月には遠江介に遷り外記局を離れる。のち、出雲守と地方官を務めたのち、天徳2年(958年)律令制における儒学者の頂点である明経博士に任ぜられた。応和4年(964年)、村上天皇の中宮・藤原安子の崩御にあたって、文章博士・菅原文時や明法博士・実憲とともに服喪の際の慣例や規則についての諮問を受けた。安和2年(969年)尚歯会という、七叟(主人を含む7人の高齢の有識者)が高齢を祝う宴席に、大納言・藤原在衡を主人とする七叟の一人として列席している。 円融朝に入ると天禄2年(971年)、十市宿禰から中原宿禰に、天延2年(974年)には中原宿禰から中原朝臣に改姓した。 卒去の時期は明らかでないが、少なくとも貞元3年(978年)8月6日に内論議に円融天皇が出御したが、博士中原有象らが参上しなかったとされることから、この時点では生存(と朝廷から認識されていた)が確認できる。
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