KS01:巨勢小柄 | 巨勢小柄 ― 巨勢金岡 | KS02:巨勢金岡 |
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巨勢金岡 | 巨勢相覧 |
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豊かな画才を朝廷に認められ、宇多天皇や藤原基経ら権力者の恩顧を得て活躍した。貞観10年(868年)から同14年(872年)にかけては宮廷の神泉苑を監修し、その過程で菅原道真や紀長谷雄といった知識人とも親交を結んだ。 |
『大間成文抄』によると、延喜元年(901年)に讃岐少目従八位下となる。『源氏物語』の絵合の巻に詞書は紀貫之、絵は相覧という『竹取物語絵巻』が登場する。作品は現存せず。 |
巨勢公望 | 巨勢広高 |
公望,公忠も金岡の子ではなくその一族とする説もある。
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一条天皇の時代に宮廷絵師として活躍した。采女正に任ぜられ、長保2年(1000年)に絵所長者となる。長保4年(1002年)には花山上皇の命により書写山の「性空上人」を写生した。 |
巨勢小石 | 巨勢源慶 |
本名は八田金起。主に仏画と花鳥画を描き、巨勢派の最後を飾った。 |
建保3年(1215年)、大和国當麻寺の当麻曼荼羅の新作が発願され、翌建保4年(1216年)、当麻曼荼羅の新作を開始したが、製作中に没する。当麻曼荼羅は、建保5年(1217年)、宅磨良賀の補佐で子の源尊が完成させたという。 |
巨勢有久 | 巨勢行忠 |
左近衛将監,采女正,壱岐守,絵所長者を歴任した。正中2年(1325年)、東寺の大仏師職となり、元弘4年(1334年)、東寺西院の「両界曼荼羅」を描く。他に興国5年/康永3年(1344年)、東寺山門の「尊勝印陀羅尼本尊」を制作した記録などが散見されるのみで実際の作品は現存せず。 | 父・有久の跡を継ぎ、正平18年/貞治2年(1363年)に京都東寺の大仏師職となる。元中6年/康応元年(1389年)完成の同寺の「弘法大師行状絵巻」などが代表作。『本朝画史』によると「中華の風を学び、筆力紹妙也」とある。行忠以降、京都の巨勢派は跡絶えた。 |