<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

K008:武内宿禰  武内宿禰 ― 巨勢小柄 KS01:巨勢小柄

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巨勢小柄 巨勢男人

 『古事記』では許勢小柄宿禰、他文献では巨勢男韓,巨勢男柄,巨勢雄柄,己西男己柄とも表記される。『日本書紀』に記載はなく、『古事記』でも事績に関する記載はない。
 武内宿禰の子7男2女のうちの第2子で、巨勢氏およびその同族の伝説上の祖とされる。一方『日本三代実録』貞観3年(861年)9月26日条では、「巨勢男韓宿禰」の名で武内宿禰の第5男とされている。
 武内宿禰の他の男子と異なり、『古事記』『日本書紀』では許勢小柄に関する伝承は一切記されていない。このことから、実在を疑う見解が強いほか、武内宿禰の子とする伝承の成立も他の男子より遅れるという指摘がある。 

 武烈天皇崩御後の皇嗣選出にあたって男人は大臣であったが、大連・大伴金村が推薦した男大迹王について、皇統の子孫を調べると賢者は男大迹王しかいないとして、大連・物部麁鹿火と共に支持する。男大迹王が皇位についた(継体天皇)のちも、男人は引き続き大臣に任ぜられた。
 継体天皇21年(527年)に発生した磐井の乱に際して、大連・大伴金村,大連・物部麁鹿火と共に将軍の適任者について諮問を受け、金村らと共に麁鹿火を推薦している。
 継体天皇23年(529年)9月に薨去。娘の紗手媛,香香有媛は共に安閑天皇妃に立てられた。
 『続日本紀』天平勝宝3年(751年)2月己卯条には、雀部真人が、巨勢男人は本来「雀部男人」であったのを誤って巨勢と記されたと奏上し、時の大納言であった巨勢奈弖麻呂もその主張を支持したため、訂正したと記されている。なお、この記事によれば、男人は継体・安閑朝に大臣であったと記されているが、『日本書紀』では継体天皇23年(529年)9月に亡くなったと記されており、『日本書紀』とは異なる史料が存在していたことがわかる。

巨勢徳陀 巨勢邑治

 舒明天皇の大葬では、大派皇子(敏達天皇の子)の名代として誄を読み上げる。巨勢氏は蘇我氏と親密な関係にあり、徳多も蘇我入鹿の側近として皇極天皇2年(643年)の山背大兄王征討時には軍の指揮を執っている。ところが、大化元年(645年)に中大兄皇子によって入鹿が暗殺される(乙巳の変)と、直ちに皇子に降伏して蘇我氏討伐に参加し、復讐を図る蘇我氏遺臣の漢直らを説得して兵を引かせた。その功労によって大化3年(647年)の冠位十三階導入時には旧来の冠位十二階による小徳より小紫に昇進した。この間の大化元年(645年)7月に高麗,百済,新羅が使節を派遣してきた際に、各使節に詔を伝達している。
 大化5年(649年)阿倍内麻呂の死去後に空位となっていた左大臣に任じられて大紫に昇進する。中大兄皇子と前任の左右両大臣は晩年において路線対立があり、前任の右大臣・蘇我倉山田石川麻呂は謀反の疑いで自殺に追い込まれているが、徳多は右大臣・大伴長徳と共に中大兄皇子や中臣鎌足との協調を図りながら政権を運営した。
 白雉2年(651年)に新羅の使者が倭国を訪れた際に、新羅が唐に臣従して制度も唐制に改めたと知って追い返すという事件が起きているが、その際に新羅と唐が結ぶことを危惧した徳多は先に新羅を攻めるように進言したが、採用されなかった。だが、徳多の死後に倭国は白村江の戦いにおいて唐・新羅連合軍に敗れることになる。
 斉明天皇4年(658年)1月13日、左大臣在任中に病没した。冠位が大繡であったことが子孫の薨伝で知られる。『公卿補任』では没年齢を66歳としているが、大化5年(649年)時には50歳としており、矛盾している。

 持統天皇7年(693年)、事情を知りながら官物を盗難させたため、冠位を二階下げられた上で監物の官職を解任された。内蔵寮允・大伴男人ら他の関係者も断罪されており、内蔵寮の倉庫から官物を盗み出した横領事件と推測される。
 文武天皇5年(701年)正月に務大肆・三河守の官位にあったが、遣唐使大位(三等官)に任ぜられる。同年3月の大宝令による位階制度の制定を通じて従五位下に叙爵。同年、唐に向けて出航するも風浪が激しくて渡海できず、その後、遣唐使節の交替があって邑治は遣唐副使に昇格し、翌大宝2年(702年)6月に唐に渡る。遣唐執節使・粟田真人らは慶雲元年(704年)帰国するが、邑治は唐に残留して慶雲4年(707年)3月に帰国。渡唐の功労により5月に綿・麻布・鍬・籾を与えられ、8月に位階を進められた。
 元明朝に入り、和銅元年(708年)播磨守に任ぜられると、和銅5年(712年)従四位下、和銅8年(715年)従四位上・右大弁に叙任されるなど、要職を務めて順調に昇進する。
 元正朝では、養老2年(718年)中納言に任ぜられて公卿に列すと、養老3年(719年)正四位下・摂津国摂官、養老5年(721年)従三位と急速に昇進を果たした。
 聖武朝の神亀元年(726年)2月に正三位に昇叙されるが、同年6月6日薨去。

巨勢小邑治 巨勢境麻呂

 文武朝の慶雲2年(705年)、阿倍真君,佐伯男,田口広麻呂,紀男人らとともに従六位下から四階昇進して従五位下に叙爵する。
 元明朝の和銅4年(712年)、藤原武智麻呂,藤原房前,多治比県守,県犬養筑紫,小治田安麻呂,中臣人足,平群安麻呂とともに従五位上に昇叙され、和銅7年(715年)伊予守に任ぜられた。
 以降の事績は不明。小邑治の子息で兄・巨勢邑治の養子となった巨勢堺麻呂の薨伝によると、小邑治の位階が従五位上のままである一方で、邑治が神亀元年(724年)6月に没していることから、小邑治もそれ以前に卒去した可能性が高い。 

 天平14年(742年)内位の従五位下に叙せられる。早くも翌天平15年(743年)従五位上に昇叙されると、天平19年(747年)正五位下、天平20年(748年)正五位上と聖武朝末にかけて急速に昇進を果たす。またこの間、式部少輔・大輔を歴任している。
 天平勝宝元年(749年)7月の孝謙天皇の即位に伴って従四位下に昇叙され、同年8月に皇后宮職が紫微中台に改められると紫微少弼を兼ねる。その後暫く昇進が止まるが、天平勝宝9歳(757年)6月に発生した橘奈良麻呂の乱において、薬の処方を受けるために答本忠節の邸宅を訪ねた際に、大伴古麻呂や小野東人が反乱を計画していること、この計画を知った忠節が右大臣・藤原豊成に報告を行っているとの情報を得て、これを孝謙天皇に密かに上奏する。この功労により7月に入って三階昇進して従三位兼左大弁に叙任され、8月には参議に任ぜられ公卿に列した。
 天平宝字2年(758年)、淳仁天皇の即位後まもなく官職名の唐風改易が行われたが、大保・藤原恵美押勝らとともに改易の勅を奉じた公卿に名を連ねている。その後、病気のため出仕できなくなり、期限の到来により参議を解任された。天平宝字5年(761年)4月9日薨去。

巨勢苗麻呂 巨勢野足

 天平宝字元年(757年)、橘奈良麻呂の乱において、反乱実行時に敵側となるのを防ぐために、賀茂角足が事前に武勇に優れた者を屋敷に呼んで酒盛りをしたが、苗麻呂は高麗福信,坂上苅田麻呂らの武人と共に招待されている。
 称徳朝の神護景雲元年(767年)従五位下・少納言に叙任されるが、翌神護景雲2年(768年)駿河守として地方官に転じる。
 のち、宝亀7年(776年)従五位上、宝亀10年(779年)正五位下、延暦2年(783年)正五位上・左中弁に叙任されるなど、光仁朝後半から桓武朝初頭にかけて順調に昇進する。のち信濃守,河内守と地方官に転じるが、延暦5年(786年)左中弁に還任する。またこの間、従四位下に叙せられている。
 延暦6年(787年)閏5月27日卒去。

 延暦8年(789年)従五位下・陸奥鎮守副将軍に叙任されて以降、延暦10年(791年)には坂上田村麻呂らと共に征夷副使に任ぜられ、のち陸奥介・下野守を兼ねるなど、桓武朝中盤は蝦夷征討を担当する。また、延暦14年(795年)には越階の昇叙により正五位下となっている。
 延暦19年(800年)兵部大輔に任ぜられて以降、桓武朝末から平城朝にかけて、中衛少将,左衛士督,左兵衛督,左近衛中将と京官の武官を歴任し、大同2年(807年)の伊予親王の変では左近衛中将・安倍兄雄と共に左兵衛督として150名の兵を率いて伊予親王邸を包囲している。またこの間の延暦21年(802年)従四位下、大同3年(808年)従四位上と昇進している。
 大同4年(809年)嵯峨天皇の即位に伴って正四位下に昇叙され、翌大同5年(810年)3月に蔵人頭が設置されると、左衛士督・藤原冬嗣と共に初代蔵人頭に任ぜられている。同年9月に発生した薬子の変に際しては、固関使として鈴鹿関に派遣され、まもなく参議に中務大輔を兼ね公卿に列した。また乱での功労により勲三等の叙勲も受けた。こののちも嵯峨天皇に重んぜられて順調に昇進し、弘仁3年(812年)には中納言に任ぜられ、太政官にて右大臣・藤原園人,中納言・藤原葛野麻呂に次ぐ席次を占めた。
 弘仁7年(816年)12月1日に正三位に叙せられるが、同月14日薨去。享年68。

巨勢 人 巨勢辛檀努

 人(比等)は、天智天皇10年(671年)1月2日、蘇我赤兄と共に天皇の前に進み、賀正のことを奏した。このとき位は大錦下であった。1月5日、蘇我果安,紀大人と共に御史大夫になった。同日に大友皇子が太政大臣、蘇我赤兄が左大臣、中臣金が右大臣に任命されており、御史大夫はこれに次ぐ重職であった。
 同年11月23日に、大友皇子を含めて6人の重臣は、内裏の西殿の織物仏の前で誓盟を交わした。まず大友皇子が手に香炉をとって立ち、「六人心を同じくして天皇の詔を奉じる。もし違うことがあれば必ず天罰を被る」と誓った。あとの5人も香炉を手にして次々に立ち、「臣ら六人、殿下に従って天皇の詔を奉じる。もし違うことがあれば四天王が打つ。天神地祇も誅罰する。三十三天はこのことを証し知れ。子孫が絶え、家門が滅びる」などと泣きながら言った。11月29日に5人の臣は大友皇子を奉じて天皇の前で誓った。以上の『日本書紀』の記述では「天皇の詔」の具体的内容が明らかにされないが、一般には大友皇子を次の天皇に擁立することと理解されている。29日にも5人の臣は大友皇子を奉じて天智天皇の前で盟した。内容は不明だが、前の誓いと同じだと思われる。
 12月3日に天智天皇が崩御。既に吉野宮に去っていた大海人皇子は、翌年の6月22日に反乱に踏みきり、美濃国の不破に兵を集めてそこに移った。比等は山部王,蘇我果安と共に、数万の兵力を率いて大海人皇子を討つべく不破に向けて進発した。しかし7月2日頃、犬上川の岸に陣を敷いたとき、果安と比等は山部王を殺した。その理由は『日本書紀』に記されていない。混乱のため進軍が滞り、果安は帰ってから首を刺して死んだ。この前後の比等の行動は不明であり、指揮を執り続けたのかどうかもはっきりしない。
 壬申の乱が大海人皇子の勝利に帰すと、乱後、大納言・巨勢臣比等と子孫は配流された。結局、内訌の性質はわからないながら、少なくとも比等の側に大海人皇子に靡くような行動はなかったと考えられている。ここにある「大納言」は、日本書紀の編者が御史大夫を編纂当時の官職名に改めたものと考えられる。

 大化元年(645年)国司の次官として東国に赴任する。翌大化2年(646年)朝集使と国造らに対して国司の施政状況が問われた際、国司の長官の一人であった穂積咋が百姓に対して不当に物資を徴求し、のち悔い改めて物資を返還したものの一部に留まったとして責任を問われる。また、その次官であった富制某(名不明)と紫檀も上官の過ちを正さなかったとして同様に責任を問われたが、結局大赦により全員赦されている。
 天武天皇13年(684年)、八色の姓の制定により臣姓から朝臣姓に改姓する。天武天皇14年(685年)3月16日卒去。

巨勢多益須 巨勢麻呂

 朱鳥元年(686年)、天武天皇の崩御直後に発生した大津皇子の謀反事件において、多益須は大舎人として大津皇子に従っていたことから連座して捕縛されるが、皇子の自殺後に大津皇子に欺かれていたとして罪を赦される。
 持統天皇3年(689年)2月に刑部省に判事が置かれると、藤原不比等らとともにこれに任ぜられる。同年6月には施基皇子らと共に撰善言司となり、皇族や貴族の子弟の修養書である『善言』の編纂を行う。持統天皇7年(693年)直広肆(大宝令の位階制における従五位下相当)に叙せられている。
 大宝令の制定を通じて従四位上に叙せられ、文武朝から元明朝にかけて式部卿,大宰大弐を歴任した。和銅3年(710年)6月2日卒去。享年48。
 漢詩人として『懐風藻』に五言詩2首が採録されている。その経歴から当代随一の学理に精通した官人であったと推測される。

 持統天皇7年(693年)直広肆に叙せられる。大宝元年(701年)の大宝令施行に伴う位階制度の制定を通じて従四位下に叙せられ、慶雲2年(705年)民部卿に任じられる。
 元明朝に入ると、和銅元年(708年)3月に左大弁に任じられ、同年7月には二品・穂積親王や左大臣・石上麻呂らと共に天皇に召されて、百寮に率先して官事に努めていることを賞され、麻呂は正四位下に昇叙された。和銅2年(709年)陸奥・越後両国の蝦夷征討のため、麻呂が陸奥鎮東将軍に、佐伯石湯が征越後蝦夷将軍に任ぜられる。その後、和銅4年(711年)正四位上、和銅6年(713年)従三位、霊亀元年(715年)中納言と元明朝で順調に昇進を果たした。
 元正朝の霊亀2年(716年)、出羽国において官人や人民が少なく狄徒(出羽国の蝦夷)も未だ十分に従っていない一方で、土地が肥沃で田野が広大であることから、近国の人民を出羽に移住させて凶暴な狄徒を教え諭すと共に、土地の利益を確保すべき旨を建言する。これに基づき朝廷では、陸奥国の置賜・最上の2郡と、信濃・上野・越前・越後の4国の百姓それぞれ100戸を出羽国に移した。霊亀3年(717年)1月18日薨去。

巨勢稲茂 巨勢楲田荒人

『日本書紀』巻第十九によると、欽明天皇元年(540年)9月、難波祝津宮に天皇が行幸した際に、大伴大連金村,物部大連尾輿らとともに随従し、天皇より、「幾許の軍卒をもて、新羅を伐つことを得む」と諮問されたという。その際に金村が尾輿より、金村の半島政策の失策(任那4県を百済に割譲し、新羅の怨みを買った、ということ)を指摘され、金村は失脚した。
 また、『書紀』巻第三十によると、持統天皇3年(689年)5月22日条にもかつて孝徳天皇の喪を告げに新羅に派遣された使として、「巨勢稲持」の名が見えるが、これは「巨勢禾持」で同族の巨勢粟持のことではないか、とする説があり、少なくとも、同一人物ではない。 

 荒人の名前は『日本書紀』などの記録には登場しないが、『新撰姓氏録』「右京皇別」、「巨勢楲田朝臣」の項目によると、「雄柄宿禰四世孫稲茂臣之後也。男荒人」とあり、皇極天皇の御世に大和国の葛城の長田が開発された際に、その地が上方にあり、水を灌漑することが困難であったため、荒人の技術により、長楲(揚水機)を初めて造り、川の水を田に灌漑することができたという。天皇は大いに喜び、楲田臣の氏姓を賜ったと記されている。

 

巨勢 猿 巨勢粟持

 『日本書紀』巻第十九,巻第二十一,巻第二十二および、『聖徳太子伝暦』によると、欽明天皇31年(570年)、越国に漂着し、7月に近江国までやってきた高句麗の使節を迎えるにあたり、吉士赤鳩とともに、難波津にあった船を佐々波山(今の逢坂山)に引き上げ、使節を近江の北の山(琵琶湖北岸)に迎えいれている。
 崇峻天皇4年(591年)8月、天皇は群臣に任那を復興すべしという詔を出している。これにより、同年11月、巨勢猿は、紀男麻呂,大伴囓,葛城烏奈良らとともに大将軍に任じられ、2万あまりの軍とともに筑紫国に派遣された。ただし、朝鮮半島へは渡海しておらず、推古天皇3年(595年)7月に筑紫を引き上げたという。 

 『日本書紀』巻第二十九によると、天武天皇14年(685年)9月に、国司・郡司と百姓の消息(様子)を巡察する使者が全国に派遣された。粟持は、判官1人,史1人を部下として山陰の使者に任命された。
 同巻第三十によると、持統天皇11年(697年)2月、粟持は春宮亮とされたとある。記録に直接粟持の名前が登場するのは以上である。