K008:武内宿禰 | 武内宿禰 ― 巨勢小柄 | KS01:巨勢小柄 |
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巨勢小柄 | 巨勢男人 |
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『古事記』では許勢小柄宿禰、他文献では巨勢男韓,巨勢男柄,巨勢雄柄,己西男己柄とも表記される。『日本書紀』に記載はなく、『古事記』でも事績に関する記載はない。 |
武烈天皇崩御後の皇嗣選出にあたって男人は大臣であったが、大連・大伴金村が推薦した男大迹王について、皇統の子孫を調べると賢者は男大迹王しかいないとして、大連・物部麁鹿火と共に支持する。男大迹王が皇位についた(継体天皇)のちも、男人は引き続き大臣に任ぜられた。 |
巨勢徳陀 | 巨勢邑治 |
舒明天皇の大葬では、大派皇子(敏達天皇の子)の名代として誄を読み上げる。巨勢氏は蘇我氏と親密な関係にあり、徳多も蘇我入鹿の側近として皇極天皇2年(643年)の山背大兄王征討時には軍の指揮を執っている。ところが、大化元年(645年)に中大兄皇子によって入鹿が暗殺される(乙巳の変)と、直ちに皇子に降伏して蘇我氏討伐に参加し、復讐を図る蘇我氏遺臣の漢直らを説得して兵を引かせた。その功労によって大化3年(647年)の冠位十三階導入時には旧来の冠位十二階による小徳より小紫に昇進した。この間の大化元年(645年)7月に高麗,百済,新羅が使節を派遣してきた際に、各使節に詔を伝達している。 |
持統天皇7年(693年)、事情を知りながら官物を盗難させたため、冠位を二階下げられた上で監物の官職を解任された。内蔵寮允・大伴男人ら他の関係者も断罪されており、内蔵寮の倉庫から官物を盗み出した横領事件と推測される。 |
巨勢小邑治 | 巨勢境麻呂 |
文武朝の慶雲2年(705年)、阿倍真君,佐伯男,田口広麻呂,紀男人らとともに従六位下から四階昇進して従五位下に叙爵する。 |
天平14年(742年)内位の従五位下に叙せられる。早くも翌天平15年(743年)従五位上に昇叙されると、天平19年(747年)正五位下、天平20年(748年)正五位上と聖武朝末にかけて急速に昇進を果たす。またこの間、式部少輔・大輔を歴任している。 |
巨勢苗麻呂 | 巨勢野足 |
天平宝字元年(757年)、橘奈良麻呂の乱において、反乱実行時に敵側となるのを防ぐために、賀茂角足が事前に武勇に優れた者を屋敷に呼んで酒盛りをしたが、苗麻呂は高麗福信,坂上苅田麻呂らの武人と共に招待されている。 |
延暦8年(789年)従五位下・陸奥鎮守副将軍に叙任されて以降、延暦10年(791年)には坂上田村麻呂らと共に征夷副使に任ぜられ、のち陸奥介・下野守を兼ねるなど、桓武朝中盤は蝦夷征討を担当する。また、延暦14年(795年)には越階の昇叙により正五位下となっている。 |
巨勢 人 | 巨勢辛檀努 |
人(比等)は、天智天皇10年(671年)1月2日、蘇我赤兄と共に天皇の前に進み、賀正のことを奏した。このとき位は大錦下であった。1月5日、蘇我果安,紀大人と共に御史大夫になった。同日に大友皇子が太政大臣、蘇我赤兄が左大臣、中臣金が右大臣に任命されており、御史大夫はこれに次ぐ重職であった。 |
大化元年(645年)国司の次官として東国に赴任する。翌大化2年(646年)朝集使と国造らに対して国司の施政状況が問われた際、国司の長官の一人であった穂積咋が百姓に対して不当に物資を徴求し、のち悔い改めて物資を返還したものの一部に留まったとして責任を問われる。また、その次官であった富制某(名不明)と紫檀も上官の過ちを正さなかったとして同様に責任を問われたが、結局大赦により全員赦されている。 |
巨勢多益須 | 巨勢麻呂 |
朱鳥元年(686年)、天武天皇の崩御直後に発生した大津皇子の謀反事件において、多益須は大舎人として大津皇子に従っていたことから連座して捕縛されるが、皇子の自殺後に大津皇子に欺かれていたとして罪を赦される。 |
持統天皇7年(693年)直広肆に叙せられる。大宝元年(701年)の大宝令施行に伴う位階制度の制定を通じて従四位下に叙せられ、慶雲2年(705年)民部卿に任じられる。 |
巨勢稲茂 | 巨勢楲田荒人 |
『日本書紀』巻第十九によると、欽明天皇元年(540年)9月、難波祝津宮に天皇が行幸した際に、大伴大連金村,物部大連尾輿らとともに随従し、天皇より、「幾許の軍卒をもて、新羅を伐つことを得む」と諮問されたという。その際に金村が尾輿より、金村の半島政策の失策(任那4県を百済に割譲し、新羅の怨みを買った、ということ)を指摘され、金村は失脚した。 |
荒人の名前は『日本書紀』などの記録には登場しないが、『新撰姓氏録』「右京皇別」、「巨勢楲田朝臣」の項目によると、「雄柄宿禰四世孫稲茂臣之後也。男荒人」とあり、皇極天皇の御世に大和国の葛城の長田が開発された際に、その地が上方にあり、水を灌漑することが困難であったため、荒人の技術により、長楲(揚水機)を初めて造り、川の水を田に灌漑することができたという。天皇は大いに喜び、楲田臣の氏姓を賜ったと記されている。
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巨勢 猿 | 巨勢粟持 |
『日本書紀』巻第十九,巻第二十一,巻第二十二および、『聖徳太子伝暦』によると、欽明天皇31年(570年)、越国に漂着し、7月に近江国までやってきた高句麗の使節を迎えるにあたり、吉士赤鳩とともに、難波津にあった船を佐々波山(今の逢坂山)に引き上げ、使節を近江の北の山(琵琶湖北岸)に迎えいれている。 |
『日本書紀』巻第二十九によると、天武天皇14年(685年)9月に、国司・郡司と百姓の消息(様子)を巡察する使者が全国に派遣された。粟持は、判官1人,史1人を部下として山陰の使者に任命された。
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