<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

KS02:巨勢金岡  巨勢小柄 ― 巨勢金岡 ― 巨勢宮主麿 KS03:巨勢宮主麿


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お紋(由利)の方 巨勢至信

 紀州藩主・徳川光貞の側室で、江戸幕府8代将軍徳川吉宗の生母。俗名は由利。
 紀州藩の大奥で湯殿番をしていたお紋に藩主・光貞が手をつけたといわれており、その後、側室となる。貞享元年(1684年)に光貞との間に4男・源六(のちの吉宗)を出産する。しかし、お紋の身分が低かったためか、源六は幼年期には家老・加納政直の元で育てられた。
 その後、源六は新之助,頼方,吉宗と名を改め、宝永2年(1705年)に光貞や兄2人が没した後に紀州藩主となる。吉宗がこれほど出世しても、低い身分の出であるお紋は人目に立たない暮らしをしていたとされ、光貞没後に落飾して浄円院と称した。
 享保元年(1716年)に吉宗が将軍に就任すると、将軍生母を紀州に隠棲させておくわけにもいかず、享保3年(1718年)5月に和歌山城から江戸城に移った。享保11年(1726年)6月9日、死去。墓所は東京都台東区の寛永寺。 

 旗本巨勢氏は、至信の父である忠善の代から紀州徳川家に仕え始めた。
 享保3年(1718年)、小納戸になって三河国宝飯郡に1000石を賜り、布衣の着用を許された。享保4年(1719年)、以前に徳川頼宣の50回目の法會に名代として和歌山に赴いたことから従五位下伊豆守に叙された。享保9年(1724年)には1000石を加増される。
 享保13年(1728年)に吉宗が日光山に赴いた際はこれに同行し、享保17年(1732年)には御側に昇進、三河宝飯郡と額田郡に1000石を加増され、石高は合計で5000石になった。
 享保20年(1735年)閏3月、徳川宗尹の傅役に任じられた。延享2年(1745年)からは江戸城の西城に勤めとなっている。
 宝暦元年(1751年)、近江久道作の刀と掛軸(いずれも吉宗の遺品)を賜り、同年に務めを終えて菊間広縁詰に列した。同年12月に致仕した。宝暦4年(1754年)5月12日、死去。享年59。墓所は大養寺。 

巨勢至忠

 延享2年(1745年)、初めて徳川吉宗に御目見し、宝暦元年(1751年)に旗本寄合席に列した。宝暦3年(1753年)に定火消となり、布衣の着用を許された。宝暦9年(1759年)、江戸城西城に勤めて小姓組番頭に昇進し、従五位日向守に叙せられた。宝暦11年(1759年)に江戸本城勤務となり、御書院番の番頭となった。明和3年(1766年)、御側に昇進し、安永5年(1776年)には徳川家治の日光山行幸にも付き添っている。
 安永7年(1778年)12月16日、病を得て役職を退こうとしたものの許されず、心を落ち着けて療養すべしと、命令を受けた。3日後の12月19日に死去、享年52。