KI03:紀 大人 | 紀 角 ― 紀 大人 ― 紀 船守 | KI51:紀 船守 |
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紀 船守 | 紀 勝長 |
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天平宝字年間に授刀舎人となる。天平宝字8年(764年)に発生した藤原仲麻呂の乱においては、孝謙上皇が淳仁天皇の許にあった駅鈴,内印(天皇の御璽)を回収しようとした際、武装してこれを奪いに現れた仲麻呂方の中衛将監・矢田部老を射殺する。この功労により従七位下から従五位下と一挙に8階級の昇叙、および勲五等の叙勲を受ける。 |
延暦4年(785年)従五位下に叙爵し、翌延暦5年(786年)近江介に任ぜられる。同年8月の蝦夷攻めに際して東山道の兵器を調査している。延暦11年(792年)4月に父・船守が没すると、9月に兵部大輔に任ぜられて京官に復す。その後、桓武朝中期から急速に昇進する。延暦14年(795年)には右中弁兼右衛門督(のち右兵衛督)と文武の要職を兼ね、延暦15年(796年)参議に任ぜられて公卿に列した。またこの頃、名を梶長(楫長)から勝長に改めている。 |
紀 友則 | 紀 貫之 |
40歳過ぎまで無官であったが、和歌には巧みで多くの歌合に出詠している。寛平9年(897年)に土佐掾、翌昌泰元年(898年)に少内記、延喜4年(904年)に大内記に任ぜられる。 |
延喜5年(905年)醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集である『古今和歌集』を紀友則,壬生忠岑,凡河内躬恒と共に撰上。また、仮名による序文である仮名序を執筆している(真名序を執筆したのは紀淑望)。「やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」で始まるこの仮名序は、後代の文学に大きな影響を与えた。また『小倉百人一首』にも和歌が収録されている。理知的分析的歌風を特徴とし、家集『貫之集』を自撰した。 |
紀 名虎 | 紀 有常 |
嵯峨朝末の弘仁13年(822年)従五位下に叙爵する。淳和朝では昇進が停滞するが、仁明朝に入ると、急速に昇進を果たす。また、この間に掃部頭・中務大輔などを歴任した。この急速な昇進は、娘の種子を仁明天皇の後宮に女官(更衣)として仕えさせたことによるものとされる。承和11年(843年)刑部卿に任ぜられる。 |
左京の出身で少年の頃から仁明天皇に奉侍し、左兵衛大尉を務めた。嘉祥3年(850年)文徳天皇が即位すると、蔵人兼左近衛将監に任ぜられ、引き続き天皇の身近に仕える。翌仁寿元年(851年)従五位下に昇叙し、左馬助に任ぜられる。のち文徳朝では、右兵衛佐,右近衛少将,左近衛少将と武官を歴任した。またこの間の斉衡2年(855年)に従五位上に昇叙されている。 |
紀 田上 | 紀 深江 |
桓武朝の延暦22年(803年)従五位下に叙爵し、翌延暦23年(804年)内廐助次いで相摸介に任ぜられ地方官に転じる。平城朝に入ると大同元年(806年)従五位上・相模守、大同3年(808年)正五位下に叙任されるなど順調に昇進する。 |
右京出身で若くから大学に入学して、史書をほぼ修学した。文章生から大学少允に任ぜられ、主税助・式部少丞を経て、嵯峨朝末の弘仁13年(822年)従五位下に叙爵。 |