<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

KI51:紀 船守  紀 角 ― 紀 大人 ― 紀 船守 ― 益子朝忠 KI53:益子朝忠

 

リンク {KH09}
益子正隆 益子正重
 益子氏は紀貞隆の次男益子正隆を初代とし、3代・益子正重のとき源頼朝の奥州藤原氏打倒に抜群の武功を挙げ、芳賀氏率いる清党とともに宇都宮氏幕下の二大武士団・紀清両党として知られるようになった。とりわけ、益子氏の隆盛の基盤となったのは、後に下野守護職を世襲する宇都宮氏の祖・藤原宗円の妻が益子正隆の女であったことによるところが大きい。 

 益子氏の祖とする益子正隆の嫡孫として誕生。下野国芳賀郡益子邑を領し西明寺城を本拠とした。文治5年(1189年)、源頼朝が奥州藤原氏討伐の兵を起こした際、正重は宇都宮朝綱の郎党として従軍し戦功を上げ、同じく郎党の芳賀次郎大夫高親と共に、頼朝から源氏の旗である白旗一流を下賜された。これが、紀清両党の勇猛を輝かす第一歩にもなった。 

益子貞正 益子安宗

 当初、宇都宮公綱は南朝方として北朝に対峙していたが、子・氏綱は父と一線を画して、足利尊氏に従う。宇都宮軍の有力武士団であった紀清両党の一翼、益子氏も南朝方から北朝方へと転じた。貞正は下野守護・宇都宮氏綱の重臣であり、一門の武将からも益子顕助,国行,由佐秀助が上洛し宇都宮軍を補佐、自らも関東において宇都宮の幕将として常陸国を拠点に勢力拡大を図る南朝方と激しく対立していた。京都方面に派遣された益子顕助は足利氏に従い、建武3年(1336年)、東寺にて討ち死にしその子・秀助は足利一門の細川頼春に従い、四国に落ち伸びるなど益子一族が多数討ち死にしていた。
 また関東においても、上野国における源氏の棟梁新田氏が有力な南朝方として活発に活動し北朝方に圧力を加えており、一方、常陸では南朝の征夷大将軍・興良親王を奉ずる北畠親房,春日顕国,広橋経泰,楠木正家らが常陸における宇都宮一族の小田治久ら小田氏,大掾高幹,長岡宣政ら常陸平氏,那珂通辰,川野辺資鎮ら那珂・川野辺氏ら藤原一党を味方につけ、猛威を振るっていた。このとき、貞正の所領は延元4年/暦応2年(1339年)、北畠親房により派遣された公卿・春日顕時により攻め込まれ、西明寺城,八木岡城,上三川城を一時、奪われてしまう事態に至る。このとき、南朝方の春日軍の主力は小田勢であったが、小田氏の家祖・八田知家は益子氏を母として生まれた遠い縁戚であり、まさに骨肉の争いによって所領を失う事態に至ったといえる。
 その上、正平6年/観応2年(1351年)には北朝方の対立は混迷を極め、室町幕府内で急速に台頭した足利将軍家の執事高師直・師泰と対立した尊氏の弟・足利直義が南朝方に下り、反尊氏の兵を挙げ、の北朝方は分裂状態に陥った。所謂、観応の擾乱の始まりである。『太平記』巻30によると、同年12月15日、貞正は主君・氏綱に従い、尊氏方に属して直義方と薩タ峠で対峙したとある。直義方の総勢は伊豆国の国府に本陣を置く総大将・直義,上杉憲顕,石堂頼房、そして上野にて陣を張る桃井直常とその家臣・長尾左衛門尉ら10万、うち、北関東における直義党勢力である桃井・長尾両軍は1万の軍勢を以て宇都宮軍と対峙していた。対する宇都宮一族は、総大将の氏綱をはじめ、宇都宮一族の氏家周綱,綱元,忠朝、同じく宇都宮一族の薬師寺元可,義夏,義春,助義兄弟、紀党の貞正、清党の芳賀貞経と他、これに隣国武蔵七党の猪俣兵庫入道,安保信濃守,岡部新左衛門入道,岡部出羽守親子を加えて1500の軍勢であった。これに、佐野氏・佐貫氏ら500が宇都宮方の援軍に加わるがその総勢2000から3000。1万とも1万2000ともいう大軍を誇る桃井軍との兵力差は歴然であった。貞正・芳賀貞経率いる紀清両党700余騎は大手の北端に陣を敷き、宇都宮一族の氏家氏は200余騎を率いて中央へ、薬師寺氏は500余騎を率いて搦め手にまわった。緒戦は桃井軍7000が宇都宮軍を攻撃し、長尾軍3000が氏家軍に攻めかかったが、長尾軍のうち500を率いる長尾新六隊が大将諸共全滅し、これを契機に形勢逆転、三倍以上の大軍を打ち破ったという。
 以後も南北朝の対立は続くが、宇都宮軍には3万もの軍勢が集うようになり、この戦いにより関東において北朝方は優位な地位が確立されることとなった。

 永禄5年(1562年)、益子勝宗の3男として誕生。長兄で嫡男であった信勝が、武田信玄から偏諱を受けたことを宇都宮広綱の正室・南呂院に疎まれ那須氏の有力家臣・大関氏のもとに奔ったため、庶子であった安宗が嫡男となった。
 しかし天正7年(1579年)、益子氏の重臣・加藤上総の讒言により幽閉され、家督は子の家宗に継承された。以後、隠居の身分として余生を過ごした。寛永12年(1635年)、死去。 

益子家宗 益子重綱

 父・安宗は宇都宮氏からの独立を果たそうとして反対する重臣らに幽閉されたため、幼くして家督を継いだ。そのため、加藤大隅守や加藤大蔵少輔ら重臣が執政として一族を取り仕切った。
 天正9年(1581年)、隣接する笠間城主・笠間綱家と争い、益子の支城である富谷城を結城晴朝の援軍に預け、岩瀬城を加藤大隅守,同大蔵少輔らを守将として笠間勢に備えた。この戦いは2年続き、天正11年(1583年)、結城方からの仲裁を無視して益子に攻め込んだ笠間軍に対して、安宗・結城晴朝の軍がこれを撃破するに至った。同年、家宗は下館の水谷氏からの援軍を受けて、益子領内で笠間方の高塩伊勢守の居城となっていた山本古屋城を落とし、さらに真岡郡西の台に進軍し、芳賀高照ら芳賀軍と戦った。
 天正13年(1585年)、同盟軍であった結城氏の武将・羽石盛長が笠間方に内通したため、その居城田野城を攻め落とした。しかし、益子氏が譜代家臣でありながら宇都宮一門である笠間氏と数度に渡り争ったことに、主君・宇都宮国綱の逆鱗に触れるところとなり、主家と対立する。天正17年(1589年)、芳賀高継,多功綱継,塩谷義綱らの宇都宮軍が西明寺城に来襲し城下で激戦となり、遂に敗北し益子領600町の領地は改易となる。家宗は戦死したとも、豊臣秀吉の側近・浅野長政の客将になったともいわれる。益子氏の残党は益子重綱を奉じて、なおも宇都宮氏と対峙を続けることとなった。  

 益子氏は家宗の代に本城である西明寺城を宇都宮方の芳賀・塩谷勢に攻められ敗北し、600町の益子領を召し上げとなっていた。そのため、益子氏の残党は富谷城において重綱を後継者に擁立し、結城晴朝の支援を受けて抵抗を続けていた。
 天正11年(1583年)、重綱は結城氏の援軍を得て仇敵である笠間幹綱を攻め、笠間方の谷中玄蕃允を討ち取る戦果を挙げた。配下の将を失った笠間氏は益子氏に対して弔い合戦を企て、谷中玄蕃允の一周忌を期して、玄蕃允の嫡男・谷中孫八郎をして先鋒大将として、家老の江戸美濃守を後楯とした益子討伐の兵を挙げた。笠間軍は、益子方の要害である富谷城を一気に乗っ取る計略を立て、兵を城近くまで進めた。一方、富谷城からも益子方の500~600人の兵が出動し、笠間勢と激突するに至ったが、笠間方の急襲により浮き足立った益子勢は散々に打ち破られ、戦いは笠間氏の大勝利に終わった。「益子系図」によれば、この合戦で重綱が捕らえられたとも記されている。
 結城晴朝はこれを受けて笠間氏を攻撃するものの、益子氏はこのときを以って滅亡し、重綱は結城氏を頼って下総国・常陸国方面に落ち延びたという。