<応神朝>

K104:日本武尊  日本武尊 ―(仲哀天皇)― 応神天皇 K201:応神天皇


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応神天皇 大山守皇子

 神功皇后の三韓征伐の帰途に筑紫の宇瀰または筑紫の蚊田で生まれたとされる。応神天皇元年に71歳で即位、同41年に111歳で崩御。『古事記』に130歳。
 『日本書紀』によると、応神天皇14年に弓月君(秦氏の先祖)が百済から来朝して窮状を天皇に上奏し援軍を求めた。弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、葛城襲津彦の助けで弓月君の民は加羅が引き受けるという状況下にあった。しかし、3年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて本邦に帰還することはなかった。 そこで、応神天皇16年8月、新羅による妨害の危険を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、平群木莵宿禰と的戸田宿禰が率いる精鋭が加羅に派遣され、新羅国境に展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。
 『古事記』に「この御世に、海部、山部、山守部、伊勢部を定めたまひき。また、剣池を作りき。また新羅人参渡り来つ。ここをもちて建内宿禰命引い率て、堤池に役ちて、百済池を作りき」。『日本書紀』にも同様の記事が見え、応神五年八月条に「諸国に令して、海人及び山守を定む」、応神11年10月条に「剣池・軽池・鹿垣池・厩坂池を作る」とある。剣池は奈良県橿原市石川町の石川池という。
 『古事記』に、百済の国主・照古王(近肖古王)が、雄雌各一頭を阿知吉師に付けて献上したとある。この阿知吉師は阿直史等の祖。また、横刀や大鏡を献上した。また「もし賢人しき人あらば貢上れ」と仰せになったので、「命を受けて貢上れる人、名は和邇吉師。すなわち論語十巻、千字文一巻、併せて十一巻をこの人に付けてすなわち貢進りき。この和爾吉師は文首等の祖。また手人韓鍛名は卓素また呉服の西素二人を貢上りき」。『書紀』の15年8月条と16年2月条に同様の記事が見える。また、応神20年9月条に「倭の漢直の祖阿知使主、其の子都加使主、並びに己が党類十七県を率て、来帰り」とあって、多くの渡来人があったことを伝えている。
 後世、神功皇后と共に八幡神に付会され、皇祖神や武神として各地の八幡宮に祭られる。陵は、大阪府羽曳野市誉田の惠我藻伏崗陵(恵我藻伏岡陵)に治定されている。考古学名は誉田御廟山古墳。また、大阪府堺市北区百舌鳥本町にある百舌鳥陵墓参考地も応神天皇が被葬候補者に想定されている。考古学名は御廟山古墳。
 在位について実態は明らかでない。年代に関して、『日本書紀』では応神天皇3年条に百済の辰斯王が死去したことが記述されているが、『三国史記』には辰斯王が死去したと記述されている年は西暦392年である。また、『日本書紀』では応神天皇8年条に「百済紀には、阿花王が王子直支を遣わしたとある。」と記述されているが、『三国史記』「百済本紀」において阿花王(阿莘王/阿芳王と記載)が太子腆支(直支のこと)を遣わしたと記述されている年は西暦397年である。また、『日本書紀』では応神天皇16年条に阿花王が死去したことが記述されているが、『三国史記』にて阿花王が死去した年は西暦405年である。

 応神天皇40年1月、菟道稚郎子の立太子の際、山川林野の管掌を任されたが、兄である自らが皇太子になれなかったことを恨んでいた。応神天皇の崩御後、密かに皇位を奪おうと謀り、皇太子を殺害するために数百の兵を挙げた。しかし、この謀は前もって大鷦鷯尊(後の仁徳天皇)と皇太子の察知するところとなり、菟道川の渡河中に渡し守に扮する皇太子の計略によって船を転覆させられ、救援を請うも空しく水死した。遺骸は考羅済で見つかり、那羅山に葬られたという(那羅山墓)。
 現在、この墓は奈良市法蓮町所在の円墳に比定され、宮内庁の管理下にある。なお、子孫は遠江国に下ったらしく、後裔氏族として土形君(城飼郡),榛原君(榛原郡)などが知られる。 

八田皇女 雌鳥皇女

 『日本書紀』によれば、応神天皇の崩御後、大鷦鷯尊(仁徳天皇)と菟道稚郎子は皇位を譲り合っていたが、空位のまま3年が経ち、菟道稚郎子は自らの命を断った。その際、大鷦鷯尊に妹の八田皇女を後宮に納れるよう遺言した。
 大鷦鷯尊は即位(仁徳天皇)して仁徳2年に磐之媛命を皇后に立てるが、磐之媛命は嫉妬深い女性であり、仁徳天皇が八田皇女を妃とすることを許さなかった。しかし、天皇は仁徳30年に皇后の留守中に宮中へ納れ、怒った皇后は帰ることなく仁徳35年に筒城宮で亡くなった。そして天皇は仁徳38年に八田皇女を皇后に立てたという。
 その後、仁徳40年に皇后の同母妹の雌鳥皇女を妃としようとしたが、隼別皇子が皇女と通じてしまう。天皇は皇后の言を尊重して罰しなかったが、謀反の心があるとして殺された。この時皇后の願いにより皇女の足玉手玉は奪わぬよう追手に命じるが、その禁は破られる。皇后の告発により、その犯人は私地を献じて死を免れたという。『古事記』でも概ね同様の所伝を記すが、菟道稚郎子の自殺や遺言の話はなく、大后(皇后)になったことも明記されてはいない。
 八田皇女に関して、宮内庁による治定墓はない。ただし、奈良県奈良市法華寺町にある宮内庁の宇和奈辺陵墓参考地では、八田皇女が被葬候補者に想定されている。考古学名は「ウワナベ古墳」。

 『日本書紀』巻第十一によると、仁徳天皇は継室・八田皇女の妹で、異母妹である雌鳥皇女を妃にしようとして、媒酌人として2人にとって異母兄弟に当たる隼別皇子を遣わした。しかし、隼別皇子は、密かに彼女を妻にして命令に背いた。『古事記』では、仁徳天皇の皇后の嫉妬を恐れた皇女が、自らすすんで隼別皇子の妻になったとする。
 何も知らなかった天皇は雌鳥皇女の寝所へ行ったが、皇女に仕える機織女らの歌を聴き真相を知り恨んだが、皇后に気兼ねし、また兄弟としての交情を思い一旦はこれを許した。
 しかし、2人は慢心して、「鷦鷯と隼とどちらが速いか」と皇子が尋ねた際に、皇女は「隼の方が速い」と答えた。暗に大鷦鷯尊である天皇よりも、隼別の方が魅力的で能力面でも優れている、と天皇を誹謗したものとされた。
 このことで、天皇は激怒し、私情を国事に及ぼさぬようにしてきた鬱憤を爆発させ、また2人が自分に対して謀反を起こそうとしていると知り、2人を殺そうと思った。隼別皇子が(罪を逃れるべく)伊勢神宮に雌鳥皇女ともども参拝しようとしているのを、天皇は自分たちから逃げたと解釈して、追っ手として、吉備品遅部雄鯽,播磨佐伯直阿俄能胡らの軍兵を差し向けたという。このときに八田皇后は、「雌鳥皇女は重い罪を犯したが、だからといって装飾品をとりあげるなど、辱めるようなことはしないで欲しい」と申し上げたので、天皇はその命令を雄鯽らに伝えた。
 叛逆罪で逃亡した2人は、菟田の素珥山(現在の宇陀郡室生村の曽爾)を越えて(『古事記』では現在の桜井市倉橋にある音羽山)に登って歌を詠んだ。しかし、逃げ切ることは叶わず、伊勢国の蒋代野(『古事記』では宇陀の蘇邇)で追いつかれて殺されてしまった。このときに、雄鯽らは皇女の死骸の裳の中から玉を見つけた。『古事記』では将軍の山部大楯連が女鳥王の手に巻いてある玉釧を着服して、妻に与えたことになっている。
 その後、新嘗祭のあった月(11月)に、豊明節会の宴会が開かれ、酒を五位以上の女たちに賜った。その際に、近江山君稚守山の妻と采女の磐坂媛の手に雌鳥皇女の所有物だった珠があった。2人を詰問したところ、佐伯直阿俄能胡の妻から貰ったことが判明した。阿俄能湖は自白し、殺されるところだったが、自分の土地を献上して、赦免された。その土地は、玉代と呼ばれた。
 『古事記』では温情措置は行われず、自分の主君筋の人間の手が(死んで間もない)温かいうちに剥ぎ取るとは言語道断だとして、大楯は死刑に処せられた。 

菟道稚郎子皇子 彦主人王

 菟道稚郎子は、名前の「菟道」が山城国の宇治の古代表記とされるように、宇治地域と関連が深い人物である。郎子は宇治に菟道宮を営んだといい、郎子の墓も宇治に伝えられている。
 郎子については『古事記』『日本書紀』等の多くの史書に記載がある。中でも、父・応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談が知られる。ただし、これは『日本書紀』にのみ記載された説話で、『古事記』では単に夭折と記されている。
 『古事記』『日本書紀』の郎子に関する記載には多くの特異性が指摘されるほか、『播磨国風土記』には郎子を指すとされる「宇治天皇」という表現が見られる。これらの解釈を巡って、天皇即位説や仁徳天皇による郎子謀殺説に代表される数々の説が提唱されている人物である。  

 『日本書紀』継体天皇即位前条によると、彦主人王は近江国高島郡の「三尾之別業」(現在の滋賀県高島市の安曇川以南域)におり、越前三国の坂中井(現在の福井県坂井市の旧三国町域)の振媛を娶った。
 その後、振媛は男大迹王(のちの継体天皇)を生んだが、その幼少のうちに彦主人王は死去。そのため振媛は高向(現在の福井県坂井市の旧丸岡町域)に帰郷して、男大迹王を養育したという。

忍坂大中姫命 衣通郎媛

 『日本書紀』允恭紀に、允恭天皇2年春2月14日(413年3月31日)立后され、名代部として刑部が設定されたとある。このとき設定された名代部の一つが火葦北国(熊本県八代・葦北地方)であるとする説がある。当地から阿蘇ピンク石という石材が産出しており、河内平野の古墳の石棺にこの石材が用いられていることから、何らかの関係があるとする見方もある。
 允恭天皇42年12月14日(454年1月28日)、安康天皇の即位と同日に皇太后となった。

 たいへん美しい女性であり、その美しさが衣を通して輝くことからこの名の由来となっている。本朝三美人の一人とも称される。
 『記紀』の間で衣通姫の設定が異なる。『古事記』には、允恭天皇皇女の軽大郎女の別名とし、同母兄である軽太子と情を通じるタブーを犯す。それが原因で允恭天皇崩御後、軽太子は群臣に背かれて失脚、伊予へ流刑となるが、衣通姫もそれを追って伊予に赴き、再会を果たした二人は心中する(衣通姫伝説)。
 『日本書紀』においては、允恭天皇の皇后・忍坂大中姫の妹・弟姫とされ、允恭天皇に寵愛された妃として描かれる。近江坂田から迎えられ入内し、藤原宮に住んだが、皇后の嫉妬を理由に河内の茅渟宮へ移り住み、天皇は遊猟にかこつけて衣通郎姫の許に通い続ける。皇后がこれを諌め諭すと、以後の行幸は稀になったという。
 紀伊の国で信仰されていた玉津島姫と同一視され、和歌三神の一柱であるとされる。現在では和歌山県和歌山市にある玉津島神社に稚日女尊,神功皇后と共に合祀されている。