<応神朝>

K201:応神天皇  応神天皇 ― 仁徳天皇 K202:仁徳天皇


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仁徳天皇 住吉仲皇子

 応神天皇の崩御の後、最も有力と目されていた皇位継承者の菟道稚郎子皇子と互いに皇位を譲り合ったが、皇子の薨去(『日本書紀』は仁徳天皇に皇位を譲るために自殺したと伝える)により即位したという。この間の3年は空位である。
 人家の竈から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除し、その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった、と言う『記紀』の逸話に見られるように、仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する。
 ただ一方で、『記紀』には好色な天皇として皇后の嫉妬に苛まれる人間臭い一面も描かれている。また、事績の一部が父の応神天皇と重複・類似することから、元来は1人の天皇の事績を2人に分けたという説もある。また逆に、『播磨国風土記』においては、大雀天皇と難波高津宮天皇として書き分けられており、二人の天皇の事跡を一人に合成したとする見方もある。
 『日本書紀』の仁徳の条の冒頭では、五百城入彦皇子(成務天皇の弟)の孫となっているが、この記載は古事記応神の条の冒頭にある記事と矛盾する。すなわち、大雀の母・中日売の父が、五百木入日子の子・品它真若となっていることである(この場合、大雀は五百木入日子の曾孫となる)。『古事記』と『日本書紀』の系図どちらが正しいかは不明である。
 なお、『宋書』倭国伝の「倭の五王」中の讃または珍に比定する説があるが、確定していない。 

 『日本書紀』履中天皇即位前条によれば、仁徳天皇87年1月に天皇が崩御したのち、皇太子で兄の去来穂別(のちの履中天皇)が黒媛(羽田矢代宿禰の娘)を妃にしようと思ったが、仲皇子が去来穂別の名を騙って黒媛を犯してしまった。仲皇子は発覚を恐れ、天皇の宮を包囲し焼いた。しかし、去来穂別は脱出しており、当麻径を通り大和に入った。この時、仲皇子の側についた阿曇連浜子の命で後を追った淡路の野島の海人らは、かえって捕らえられた。また、仲皇子側であった倭直吾子籠も去来穂別に詰問され、妹の日之媛を献上して許された。
 その後、瑞歯別(のちの反正天皇)が去来穂別に対して、仲皇子が孤立していることを告げたところ、去来穂別は瑞歯別に殺害を命じる。瑞歯別によって仲皇子近習の隼人である刺領巾が寝返り、仲皇子は厠に入ったところを刺領巾に矛で討たれたという。
 『古事記』履中天皇段では、上述の黒媛説話はないものの反乱伝承は記されている。これによると、難波宮での大嘗祭後に墨江中王は履中天皇を焼き殺そうと殿舎に火をつけたが、天皇は大和に逃れた。そして墨江中王は、天皇側に寝返った曾婆訶理に厠で討たれたという。
 なお住吉仲皇子のように、天皇や皇太子から后妃予定者へ遣わされた皇子がその女性と関係を持ってしまう説話は、景行天皇や仁徳天皇の記事においても見られる。

反正天皇 允恭天皇

 淡路宮で生まれ、容姿美麗であった。生まれながらにして綺麗な歯並びであったため、瑞歯別の名があるという。『古事記』によれば、身長は9尺2寸半(約3.04m)、水歯別命の名は、歯の長さが1寸、広さ(厚さ)は2分(4mm)で、上下等しく整っており、歯を褒め称えて、「水歯」と名付けられたことによる。
 仁徳天皇87年、父・仁徳天皇の崩後、叛乱を起こした同母兄の住吉仲皇子をその近習である曽婆訶理(隼人)を利用して誅殺した。履中天皇2年1月4日に立太子(皇太弟)。同6年3月15日に履中天皇が崩御し、翌反正天皇元年1月に即位。兄弟継承はここに始まる。同年8月6日、共に和珥木事の娘である和珥津野媛を皇夫人に、和珥弟媛を妃に立てる。同母兄弟の2天皇と異なり皇族の妻を娶ることはなく、皇太子も立てず、子孫が即位することもなかった。10月に河内丹比を都とする。天下太平であり、何事もなく在位5年。反正天皇5年1月に崩御。『古事記』『水鏡』に60歳。『古事記』に従えば、崩御した「丁丑年七月」は西暦437年に相当し、生年は逆算して、兄・履中天皇より9歳年下の西暦378年に相当するが、定かではない。 

 5世紀前半に実在したと見られる天皇。反正天皇が即位5年1月に皇太子を定めずして崩御したため、群臣の相談により天皇(大王)に推挙された。病気を理由に再三辞退して空位が続いたが、翌年12月に妻の忍坂大中姫の強い要請を受け即位。即位3年1月、新羅に腕の良い医者を求める。同年8月、医者が来朝して天皇の病気をたちどころに治した。『古事記』によると新羅から貢物を運んできた金 波鎭漢 紀武がたいへん薬に詳しい男で、彼の作った薬によって病気が治ったとされる。即位4年9月、諸氏族の氏姓の乱れを正すため、飛鳥甘樫丘にて盟神探湯を実施する。即位5年7月、玉田宿禰(葛城襲津彦の孫)の叛意が露顕、これを誅殺する。
 『日本書紀』によれば、即位7年、天皇は皇后の妹の弟姫を妃にしようとした。衣通郎姫自身は姉を慮って入内を拒否したが、天皇は烏賊津使主を送って衣通郎姫を説得させた。烏賊津使主は庭に伏せ、懐に隠した糒を食べて飢えを凌ぎながら七日七晩動かなかった。とうとう折れた衣通郎姫は入内を承諾したが、宮中とは別に藤原宮に住まった。即位8年2月、衣通郎姫は皇后の嫉妬を理由にさらに遠方の茅渟宮へ移った。天皇は遊猟にかこつけて衣通郎姫の許に行幸を続けた。ただ、この衣通姫伝説は『古事記』には記載がない。『古事記』は天皇の娘の軽大娘皇女を衣通郎女、または衣通王としている。
 即位23年、長男の木梨軽皇子を皇太子とするが、翌年に同母妹の軽大娘皇女との近親相姦が発覚。即位42年1月、天皇が崩御すると、暴虐を行い女色に溺れたと見なされた太子から人心は離れ、弟の穴穂皇子へと移っていった。穴穂皇子を恐れた太子は密かに挙兵しようとしたが失敗し、物部大前宿禰の館に逃げ込んだ。そこへ穴穂皇子が軍を率いて現れ、館を取り囲んだ。大前宿禰は太子を裏切り、最期を悟った太子は自害した。あるいは伊予に配流されたとも言われる。
 『古事記』によれば、太子は伊予の湯(道後温泉)に流されたという。遺された軽大娘皇女はなお想いがつのるばかりで、ついに伊予へと向かってしまった。再会した兄妹は喜びに浸りながら自害して果てたという。この兄妹の悲恋が『古事記』における衣通姫伝説(軽大娘皇女=衣通郎姫)であり、允恭記の大半を占める歌物語となっている。

大草香皇子 眉目王

 中蒂姫命(履中天皇皇女)との間に眉輪王を儲ける。安康天皇が彼の同母妹の草香幡梭姫皇女と弟の大泊瀬稚武皇子を結婚させようとした際、彼は承諾したものの、その印として献上しようとした宝冠・押木珠縵を使者の根使主が詐取しようとし、それを隠すために大草香皇子は拒否したと虚偽の報告をしたために殺されてしまう。
 その後、安康天皇は中蒂姫命を妃としたが、この一件によって、安康天皇は自らの暗殺の原因を作ってしまった。

 目弱王とも。父は大草香皇子(仁徳天皇の皇子)、母は中蒂姫命(履中天皇の皇女)。『記紀』によれば、父の大草香皇子が罪無くして安康天皇に誅殺された後、母の中蒂姫命は安康天皇の皇后に立てられ、眉輪王は連れ子として育てられた。安康天皇3年(456年)8月、年幼くして(7歳とも)楼の下で遊んでいた王は、天皇と母の会話を残らず盗み聞いて、亡父が天皇によって殺されたことを悟り、熟睡中の天皇を刺殺する(眉輪王の変)。その後、坂合黒彦皇子と共に円大臣の宅に逃げ込んだが、大泊瀬皇子(後の雄略天皇)の兵に攻められ、大臣の助命嘆願も空しく、諸共に焼き殺されたという。 
木梨軽皇子 坂合黒彦皇子

 『古事記』によれば、允恭23年立太子するも、同母妹の軽大娘皇女と情を通じ、それが原因となって允恭天皇の崩御後に廃太子され伊予国へ流される。その後、あとを追ってきた軽大娘皇女と共に自害したといわれる(衣通姫伝説)。また『日本書紀』では、情を通じた後の允恭24年に軽大娘皇女が伊予国へ流刑となり、允恭天皇が崩御した允恭42年に穴穂皇子によって討たれたとある。
 四国中央市にある東宮古墳が木梨軽皇子の墓といわれ、宮内庁陵墓参考地とされている。

 弟・安康天皇をその連れ子の眉輪王が殺すと、境黒彦皇子は弟・大泊瀬稚武皇子(後の雄略天皇)が皇位を継がんとする企みで殺されそうになった。そのため境黒彦皇子と眉輪王は相談して葛城円大臣の邸宅に逃げ込んだが、大臣の助命嘆願も空しく、大泊瀬皇子は邸宅で3人共に焼き殺してしまったという。また、別の記述では大泊瀬皇子に宅で斬殺されたという。
安康天皇 軽大娘皇女

 皇太子の木梨軽皇子には近親相姦の前科が有ったために群臣は皆従わず、同母弟の穴穂皇子の側に付いた。軽皇子は穴穂皇子を討ち殺そうとして兵を集めるが、群臣が離反していく不利な現況を悲嘆して、物部大前宿禰の家に潜んだ。穴穂皇子が率いる兵に包囲され、大前宿禰の計らいで戦は避けられたが、軽皇子は自裁した(尚、『古事記』では伊余湯に流罪となったと記される)。こうして、穴穂皇子は12月に践祚した。
 安康天皇元年、根使主の讒言を信じて大草香皇子(仁徳天皇の皇子)を誅殺し、翌年にその妃であった中蒂姫を皇后に立てた。同3年8月9日、天皇は中蒂姫の連れ子の眉輪王により暗殺された。『古事記』『旧事紀』に享年56、『帝王編年記』に享年54と伝えられる。
 皇太子を指名することなく崩御したが、従兄弟の市辺押磐皇子(履中天皇の皇子)を皇位継承者に立てる腹積もりであったとされる。 

 『古事記』によれば、たいへん美しい女性であったため、その美しさが衣を通してあらわれるようだ、という意味を込めて「衣通姫」と呼ばれた。同母兄であった木梨軽皇子と情を通じ、それが原因となって允恭天皇が崩御した後に木梨軽皇子は失脚、伊予国姫原へ流刑となる。軽大娘皇女はその後を追い、伊予の国で2人は自害して果てたという(衣通姫伝説)。
 『日本書紀』においては、2人の仲が発覚した直後の允恭天皇24年に軽大娘皇女本人だけが伊予姫原へ流されている。また、同じ伊予国(現在の愛媛県四国中央市)の妻鳥には「東宮陵」(東宮さんとも呼ばれる)があり、軽皇子はこの妻鳥村に流罪となり、この場所に居を構え、姫原に流罪された軽大娘皇女とは一度も逢うことなくこの地で果てた、との伝説が残る。
 現在では愛媛県松山市姫原の軽之神社に軽皇子と共に祀られており、近くには兄妹の比翼塚が建てられている。

八釣白彦皇子 雄略天皇
 安康天皇の暗殺死後、大泊瀬稚武皇子(後の雄略天皇)に暗殺の黒幕ではないかと疑われる。また彼が皇位を継ごうと企んでおり、危害を加えられると思い沈黙を通したため、生き埋めにされ殺される。この時、『古事記』の表現では、腰のところまで土をかけて埋められる途中で、両目が飛び出して死んだ、といった現代医学的には不思議な現象によって亡くなった記述がなされている。

 『記紀』によれば、安康天皇3年8月9日、安康天皇が幼年の眉輪王により暗殺されたとする。暗殺の事実を知った大泊瀬皇子は兄たちを疑い、まず八釣白彦皇子を斬り殺し、次いで坂合黒彦皇子と眉輪王をも殺そうとした。この2人は葛城氏の葛城円宅に逃げ込んだが、大泊瀬皇子は3人共に焼き殺してしまう。さらに、従兄弟にあたる市辺押磐皇子(のちの仁賢天皇・顕宗天皇の父)とその弟の御馬皇子をも謀殺し、政敵を一掃して、11月にヤマト王権の大王の座に就いた。即位後、草香幡梭姫皇女に求婚する道の途中で、志貴県主の館が鰹木を上げて皇居に似ていると何癖をつけ、布を掛けた白犬を手に入れる。それを婚礼のみやげ物にして、草香幡梭姫皇女を皇后にする。
 平群真鳥を大臣に、大伴室屋と物部目を大連に任じて、軍事力で専制王権を確立した大泊瀬幼武大王(雄略天皇)の次の狙いは、連合的に結び付いていた地域国家群をヤマト王権に臣従させることであった。特に最大の地域政権である吉備に対して反乱鎮圧の名目で屈服させた(吉備氏の乱)。
『日本書紀』には他に、播磨の文石小麻呂や伊勢の朝日郎を討伐した記事がある。
 対外的には、雄略天皇8年2月に日本府軍が高句麗を破り9年5月には新羅に攻め込んだが、将軍の紀小弓が戦死してしまい敗走したと言う(雄略天皇8年を機械的に西暦に換算すると464年となるが、『三国史記』新羅本紀によれば、倭人が462年(慈悲麻立干5年)5月に新羅の活開城を攻め落とし、463年(慈悲麻立干6年)2月にも侵入したが、最終的に新羅が打ち破ったと記載されている)。
20年に高句麗が百済を攻め滅ぼしたが、翌21年、雄略大王は任那から久麻那利の地を百済に与えて復興させたという(雄略天皇20年を機械的に西暦に換算すると476年となるが、『三国史記』高句麗本紀・百済本紀によれば、475年(高句麗長壽王63年・百済蓋鹵王21年)9月に高句麗に都を攻め落とされ王は殺され、同年熊津に遷都している)。
 雄略22年1月1日、白髪皇子(後の清寧天皇)を皇太子とし、翌23年8月、大王は病気のため崩御した。雄略天皇23年を機械的に西暦に換算すると479年となる。しかし梁書によると、梁の武帝は502年、雄略天皇に比定される倭王武を征東将軍に進号している。この解釈としては、実際の雄略天皇の没年は『記紀』による年代よりも後であったとする見解と、雄略帝=倭王武の比定が誤っているとする見解がある。
 即位後も人を処刑することが多かったため、後に大悪天皇と誹謗される原因となっているが、大悪天皇の記述は武烈天皇にも見られることから、両者は同一人物ではないかとの説もある。さらに、雄略天皇の皇后・妃は実家が誅された後に決められたものが多く、有力皇族や豪族を征伐したのち、その残党を納得させてヤマト王権に統合するために妃を取るという手段がみられる。雄略天皇の治世では、これが有力豪族にも拡大適用され、征伐された皇族・豪族からの恨みを買って雄略天皇暴君の記述が残されているとも考えられる。

星川稚宮皇子 清寧天皇

 雄略天皇と吉備上道臣氏出身の稚媛との間の子で、磐城皇子の弟。雄略天皇の死後に反乱を起こしたという。一般に「稚宮」を省略して星川皇子と呼ばれることが多い。『古事記』は系譜・反乱伝承ともに欠いている。
 雄略天皇は吉備上道臣田狭が自分の妻・稚媛の美しさを自慢するのを聞いて、田狭を任那の国司として派遣した後で、稚媛を奪って妃とした。こうして磐城皇子と星川皇子が生まれた。稚媛は雄略天皇が死ぬと、星川皇子に反乱を起こすよう説いた。星川皇子は母の言葉に従い、反乱を起こし大蔵を占領した。しかし大蔵に火を放たれ、星川皇子と稚媛のほか異父兄の兄君(田狭と稚媛の子)など従った者の多くが焼き殺された。吉備上道臣氏は星川皇子を助けようと軍船40隻を率いて大和に向かったが、殺されたことを聞いて途中で引き返した。清寧天皇はこれを非難して、吉備上道臣が管理している山部を召し上げたという。なお、滋賀県米原市の朝妻神社には、皇子の墓と称する宝篋印塔がある。

 御名の「白髪皇子」の通り、アルビノで生来白髪であったため、父帝の雄略天皇は霊異を感じて皇太子としたという。
 雄略天皇23年8月、雄略天皇崩御。吉備氏の母を持つ星川稚宮皇子が大蔵を占拠し、権勢を恣にしたため、大伴室屋,東漢直掬らにこれを焼き殺させる。翌年正月に即位。
 皇子がいないことを気に病んでいたが、清寧天皇2年、市辺押磐皇子の子である億計王(後の仁賢天皇)・弘計王(後の顕宗天皇)の兄弟を播磨で発見したとの情報を得、勅使を立てて明石に迎えさせる。翌年2王を宮中に迎え入れ、億計王を東宮に、弘計王を皇子とした。
 5年正月に崩御した。『水鏡』に41歳、『神皇正統記』に39歳という。