天平21年(749年)无位・越前国足羽郡擬主帳の官位にあったが、造東大寺史生・生江東人らと共に東大寺野占使として東大寺領荘園の占定に携わった。 その後、光仁天皇に古くから仕えてその旧臣と呼ばれた。また老は山部親王(のち桓武天皇)に対しても心を尽くして奉仕し、陰ながら補佐していきたいとの志を持っていた。当時の皇太子・他戸親王と皇后・井上内親王は老が山部親王と親しい関係にあることを聞くと、激怒して老を何度も呼び出して責め苛んだ。宝亀3年(772年)井上皇后巫蠱事件(光仁天皇に対する井上内親王の呪詛疑惑)が発生すると、老は事件を調査して多くの罪状を露わにし、これにより母子ともに皇后,皇太子を廃されるに至った。光仁朝末の宝亀9年(778年)外従五位下・右兵衛佐に叙任された。 没後の延暦22年(803年)になって、老の生前の功労に報いるために桓武天皇は老の子息である奈弖麻呂,豊人,豊成兄弟に対して内位への叙位を行うと共に、槻本公から坂田宿禰への改姓を許している。
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桓武朝の延暦16年(797年)外従五位下・内蔵助に叙任される。延暦18年(799年)長門守として地方官に転じる。延暦22年(803年)桓武天皇の皇太子時代における父・老の奉仕を賞され、弟の豊人・豊成とともに昇叙されて奈弖麻呂は内位の従五位上となり、槻本公から坂田宿禰姓へ改姓した。 平城朝では大同3年(808年)正五位下、大同4年(809年)造東寺長官に叙任されている。弘仁元年(810年)薬子の変の発生に伴い、従四位下・大和守に叙任される。 弘仁9年(818年)2月4日卒去。
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若くして大学寮で学び諸子百家を渉猟し、才能を認められ若くして文章生に推挙される。大同元年(806年)少内記次いで少外記に任ぜられる。 嵯峨朝に入り、弘仁元年(810年)大内記に任ぜられ、美作掾・式部丞・蔵人を経て、弘仁7年(816年)従五位下・但馬介に叙任される。その後地方官等を務めたのち、弘仁12年(821年)皇太子・大伴親王(のち淳和天皇)の東宮学士となり右少弁を兼ねる。弘仁13年(822年)従五位上・左少弁に昇進する。 弘仁14年(823年)4月の淳和天皇即位に伴い正五位下・式部少輔に叙任され、9月に左近衛少将を兼ねる。さらに同年12月には父・坂田奈弖麻呂の遺志を述べて改姓を請うて許され、弟・永河と共に坂田朝臣から南淵朝臣姓に改姓している。さらに、翌天長元年(824年)従四位下・式部大輔、天長2年(825年)には参議に任ぜられるなど、淳和朝に入ると俄に昇進を果たした。淳和朝では『経国集』の編纂や『令義解』の撰集に参画している。 淳和天皇の退位から約半年後の天長10年(833年)9月19日薨去。享年57。
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朝野鹿取,小野岑守,菅原清人らと共に春宮・神野親王(のち嵯峨天皇)の侍読を務める。 大同4年(809年)嵯峨天皇の即位に伴い民部少丞に任ぜられ、弘仁4年(813年)従五位下・但馬介に叙任される。民部少輔・治部少輔・備後守を経て、弘仁10年(819年)従五位上・権左少弁に叙任されると、弘仁11年(820年)右近衛少将に右中弁、弘仁12年(821年)には正五位下・左中弁に蔵人頭を兼ねるなど嵯峨朝後半は文武の要職を歴任した。しかし、弘仁13年(820年)蔵人頭の官職を解かれている。 弘仁14年(823年)嵯峨天皇から淳和天皇への譲位に伴って従四位下・内蔵頭に叙任されると共に冷然院別当に任ぜられるが、まもなく越前守として地方官に転任する。同年12月には兄・弘貞と共に坂田朝臣から南淵朝臣に改姓する。天長10年(833年)従四位上。 仁明朝に入り、承和4年(837年)備前守次いで大宰大弐に任ぜられるが、仁愛を以て務めとなし庶民に慕われたという。またこの間に派遣・帰国した第19次遣唐使への対応にもあたっている。承和10年(843年)任期を終えて帰京したのち刑部卿に任ぜられるが、間もなく希望して地方官である播磨守に転任、承和12年(845年)正四位下・近江守に叙任された。 70歳を過ぎて辞官を請い、文徳朝では仁寿元年(851年)国の老臣として遙任で下野守のち因幡守・因幡権守を歴任した。天安元年(857年)10月12日卒去。享年81。
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淳和朝末の天長9年(832年)文章生となり、翌天長10年(833年)少内記に任ぜられる。仁明朝では、承和8年(841年)従五位下・筑前守に叙任される。 文徳朝に入り、嘉祥3年(850年)式部少輔として京官に復し、仁寿3年(853年)従五位上に叙せられる。斉衡3年(856年)蔵人頭と春宮権亮を兼帯し、天皇に側近として仕える一方で皇太子・惟仁親王にも身近に仕えた。天安2年(858年)11月惟仁親王の即位(清和天皇)に伴って正四位下に叙せられると、右大弁・左大弁と要職を歴任する。この間の貞観4年(862年)に参議以上の官職に就いている者に対して、時の政治に関して議論させ諸政策の効果について詳らかにせよとの詔勅が出された際、進士から内外の諸官を歴任して政務や法律に通暁しており既に弁官の要職にあることを理由に、参議以外の者で意見を述べさせるべき者の一人として推薦されている。 貞観6年(864年)参議に任ぜられ公卿に列す。参議左大弁兼勘解由長官の官職にあった貞観8年(866年)に応天門の変が起こると、参議・藤原良縄と共に伴善男の尋問に当たった。のち議政官として、民部卿・春宮大夫などを歴任し、貞観14年(872年)従三位・中納言、貞観18年(876年)大納言、貞観19年(877年)正三位に至った。その学識の高さをもって清和天皇の信任厚く、『貞観格』『貞観交替式』や『日本文徳天皇実録』の編纂作業に携わった。 没年となった貞観19年(877年)には、小野山荘に大江音人・藤原冬緒・菅原是善と参議に名を連ねていた知識人を招き、日本初の尚歯会を開催したことでも知られる。同年4月8日薨去。享年70。
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貞観19年(877年)父・年名が臨終にあたって上表して致仕した際、既に起居が困難となっていた年名の代わりに、良臣が参内して上表を行っている。その後、陽成朝では引き続き内蔵助を務める。 元慶8年(884年)光孝天皇の即位後まもなく阿波介として地方官に転じる。その後、母親が没したことから喪のために一旦官職を辞任するが、仁和3年(887年)2月に阿波介に再任されている。 その後、零落して博打打ちとなったらしく、南助(南淵氏の内蔵助)の渾名で呼ばれながら、道端で半裸で賭博に興じていた姿が、延喜元年(901年)作の菅原道真の漢詩の中で零落した名家の子女の事例として詠まれている。
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