<桓武平氏>高望王系

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大橋信重 大橋重長

 南北朝期は宮方に属し、和泉守信重は「津島大納言」と呼ばれ、実は良王親王嫡子であった者が大橋信吉の養子となったと伝えている。信重は奴野屋城主であった。


 尾張国津島には、「四家・七名字・四姓」の土豪よりなる南朝方「十五党」があった。四家の長は大橋氏で、戦国初期の当主が重一であった。重一は1522(大永2)年、美濃国高須城を築造あるいは修築している。
 高須城は長良・木曽両川を挟んで津島と接しており、大橋氏は次の重長のとき、尾張国清洲城主の織田氏と領地を争っている(大橋の乱)。尾張国にはまた、織田信貞の子で勝幡城主の信秀がおり、重長(重定)は、信秀と抗争を続けたが、ついには信秀の女・蔵を嫁として迎え、やがて信秀に属するようになる。重長の高須在城は、1534(天文3)年までである。 

織田信弌

 尾張国津島に勢力を持つ豪族の大橋重長の子であったが、母が織田信秀の娘・くらの方であり織田信長の甥だったことから、織田姓を名乗ることを許されて織田氏一門に加えられる。1581(天正9)年の織田信長の京都御馬揃えでは馬揃連枝衆に名が見える。
 1582(天正10)年6月2日、本能寺の変にて討ち死にした。