<桓武平氏>高望王系

H101:平 高望  平 高望 ― 平 良兼 H301:平 良兼

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平 良兼 平 公雅

 父の高望とともに上総国に下向した良兼は、高望の上総介の任期が過ぎても帰京せず父に次いで上総介を勤め、上総下総に勢力を拡大、その後各地に広がる高望王流桓武平氏の基盤を固めた。
  甥であり聟でもある将門とはかねてから不仲であり、将門にとっては伯父にあたる良正をも打ち破るに至って武力介入し、将門との対立の中心に立つようになる。父国香を死に追い込んだ将門との和平路線を取る甥の貞盛を批判,説得して味方に引き入れ、下野を目指し出陣した。承平6年(936年)6月、良正・貞盛と共に下野国境にて将門と合戦になり数では圧倒的に勝るも敗れ、下野国府に退却。国府は包囲されるも将門は包囲の一角を解きあえて良兼を逃した。
  その後、源護の告状よって、将門は京に召喚され裁きを受ける事となるが、承平7年(937年)4月、朱雀天皇元服の大赦で罪を許され5月に帰国。すると同年8月6日、良兼は将門の父・良将や高望王など父祖の霊像を掲げて将門の常羽御厩を攻め、今度は将門を敗走させて常羽御厩を焼き討ちした。すぐさま兵を再編した将門に反撃されるも再びそれを退け、その際、密告のもと将門の妻子(つまり良兼の娘と孫)を捕らえ当時の婚姻形態は通い婚でもあり、上総に連れ帰る。だが、息子の公雅や公連が手助けして9月10日に再び出奔し将門の元に戻ってしまう。
  その後も将門との争いが続くなか、11月5日将門の訴えに応えた朝廷により武蔵・安房・上総・常陸・下野などの国々に良兼ら追捕の官符が下ってしまう。これにより将門と良兼は公的に立場が逆転し将門は力を得て勢い付いたものの、各地の国司は官符を受けても平一族と争うことを躊躇して動くこともなく、また官符が出された国々の実質統治者は平一族当人らである為に、何の効果もなかったのではないかといわれている。良兼は12月14日(938年1月17日)将門の駈使である丈部子春丸を買収して石井の営所の内情を探り夜襲をかけるも察知され逆襲を受け敗走、これ以降良兼の勢力は衰退し、天慶2年(939年)6月に病死した。

 平公正,平公雄,平忠望も同一人物とされる。父良兼らが従兄弟の平将門と度々争い、勝利して将門の妻子を捕らえ上総に拉致すると、弟の公連と共にこれを将門の許に逃がしたとされる。
  承平7年(937年)に将門の訴状により朝廷から下された追捕の官符で父らと共に対象になっているため、この頃は父と共に将門と争っていたと見られるが、天慶2年(939年)6月に父が病死すると、将門と対立する平貞盛らとは距離を置いて中立的立場になったといわれている。12月に将門が「新皇」を自称し叛乱をおこすと、翌天慶3年(940年)1月14日、将門の牽制のために任命された8人(坂東8ヶ国)の東国掾の一人となり、将門の乱の鎮圧後に安房守となった。
  天慶5年(942年)藤原秀郷の後任として武蔵守となり、将門の乱によって荒廃していた武蔵国・金龍山浅草寺を再建したことで知られる。
  また、天慶8年(945年)3月18日に公雅の枕元に観音様が立ち「この沖合に生ずる青,赤,黒三通りの海草を食すれば、無病開運、来世は必ず仏果を得べし」と告げたので、教えの通りにそれらの海草を集めて食してみたところ、非常に美味しくて体にも良いことから「観音様の法(のり,教え)だから『浅草のり』だ」と評判になったという伝説も知られている。

平 致頼 平 公連

 坂東平氏の流れを汲む平公雅の三男(平良正の子とも)。致経,公親,公致らの父。平五大夫と号した。従五位下、備中掾。
  長徳4年(998年)、同族の平維衡と伊勢国神郡において合戦を繰り広げたため、のちに両者とも朝廷に出頭を命じられ尋問を受けたが、この際維衡は直ちに非を認めて過状(詫び状)を提出し、位階は剥奪されずに淡路国へ移郷とされたのに対し、致頼はなかなか非を認めず過状も提出しなかったため、位階を剥奪の上隠岐国へ配流となった。3年後の長保3年(1001年)、致頼は赦免され五位に復されたという。
  しかし寛弘4年8月に藤原伊周,隆家兄弟が藤原道長暗殺を計画し致頼に命じていたという噂が流れていたとある。長徳の変の際に致頼の弟の右兵衛尉平致光とその兄弟が伊周の郎党として検非違使に家宅に踏み込まれ逃亡していた経緯があった。また致頼の姉妹が既に薨去していた伊周・隆家の父藤原道隆の家司の有道維広の室であり、その息子で致頼の甥に当たる有道惟能が伊周の家司だった事から伊周らはその繋がりで致頼と通じ接触した可能性もある(この時道長は金峰山に向けて8月2日に出立しており、13日には連絡をとる為の勅使として源頼定が派遣されたが、その翌日の14日に道長は無事戻ってきており結局暗殺計画は実行されていない)。その4年後の寛弘8年(1011年)に卒去。
  なお、致頼は平安時代後期の伝記本『続本朝往生伝』に源満仲・満政・頼光・平維衡らと並び「天下之一物」として挙げられるなど、当時の勇猛な武将として高く評価されている。

 父良兼らが従兄弟の平将門と度々争い、勝利して将門の妻子を捕らえ上総に拉致すると、兄の公雅と共にこれを将門の許に逃がしたとされる。
  天慶2年(939年)に将門が叛乱をおこして平貞盛・藤原秀郷らに討たれた後、征東大将軍藤原忠文の副将の一人藤原忠舒によって押領使に任命され、天慶3年(940年)4月8日を以って下総国に入部して残党の掃討を行った。

長田俊政 長田重元
北条高時に従い自害。  長田が源義朝を討ちとった家号であるため、家康の命で大江氏となり永井を称した。永井氏は重元のとき家康の父広忠に仕えた。広忠は三河国大浜郷に砦を築き、重元に守備させた。天正10年(1582)、織田信長の横死のあと、家康が伊賀越えで伊勢の白子に上陸したとき、重元は船を用意して三河の大浜郷の自身の館に迎えたという。永井氏は大浜郷の領主であったようでもある。
長田忠致 長田景致

 長田忠致は道長四天王の1人とされた平致頼の5世孫にあたる。尾張国野間を本拠地とし、平治年間には源氏に従っていたという。平治元年(1159年)、平治の乱に敗れた源義朝は、東国への逃避行の途中、随行していた鎌田政清の舅である忠致のもとに身を寄せる。しかし、忠致・景致父子は平家からの恩賞を目当てに義朝を浴場で騙し討ちにし、その首を六波羅の平清盛の元に差し出した。この際、政清も同時に殺害されたため、嘆き悲しんだ忠致の娘(政清の妻)は川に身を投げて自殺したとされる。また、兄の親致は相談を持ちかけられた際、その不義を説いていたが、前述のような事件が起きてしまい、乳母の生まれ故郷である大浜郷棚尾に移り住んだという。
  義朝を討った功により忠致は壱岐守に任ぜられるが、この行賞に対してあからさまな不満を示したため、かえって清盛らの怒りを買い処罰されそうになり、慌てて引き下がったという。
  後に源頼朝が兵を挙げるとその列に加わる。忠致は頼朝の実父殺しという重罪を負う身であったが、頼朝から寛大にも「懸命に働いたならば美濃尾張をやる」と言われたため、その言葉通り懸命に働いたという。しかし平家追討後に頼朝が覇権を握ると、やはりその父の仇として追われる身となり、最後は頼朝の命によって殺害されたらしい。その折には「約束通り、美濃尾張(身の終わり)をやる」と言われたと伝えられている。処刑の年代や場所、最期の様子については諸説があって判然としないが、『保暦間記』によると建久元年10月の頼朝の上洛の際に、美濃で斬首されたことになっている。処刑されたのでなく治承4年10月14日(1180年11月3日)に鉢田の戦いで橘遠茂とともに武田信義に討たれたとする説がある。
  その後、子孫は武田氏を頼って甲斐国へ逃げたという説もあり、山梨県に今でも長田家は存在する。

 父、忠致の源義朝暗殺計画に加担し、実行の際には義朝の第一の郎従であり、自分の義兄弟でもある鎌田政清を斬っている。『平治物語』においては、これ以外の場面でも常に父と一対で登場し、息の合った行動を見せている。その最期もまた父と同時であり、義朝の子源頼朝の命で処刑されたという。また、彼の子孫は三河国へ逃れて永井と名乗ったとも、甲斐国へ逃げて今でも家名を保っているとも言われている。