<桓武平氏>高望王系

H301:平 良兼  平 高望 ― 平 良兼 ― 水野景貞 H302:水野景貞

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水野景貞 水野高家

 平安時代後期、景貞は尾張国山田荘水野郷に入尾城を築いて居住したため、水野太平太と称し、水野氏の始祖となったという。
 平安時代末期には山田荘水野郷や志段味郷を支配下においた。承久の乱がおこると一族を挙げて朝廷方につき、幕府軍と戦う。

 平安時代末期の武将。尾張国山田荘水野郷・志段味郷を拠点とした豪族である水野氏の総領。入尾城主。治承4年(1180年)12月、尾張国山田庄志田味(志段味)郷の下司職に、元暦元年(1184年)2月、八条院御領尾張国山田庄志談(志段味)の郷司職に補任された。
水野高康 水野致国
 承久3年(1221年)、後鳥羽上皇の院宣に応じて朝廷方として起ち、一族を挙げて山田重忠に属し鎌倉方と戦う(承久の乱)。この時、実子・有高が戦死。承久の乱の後は京都に移り住み、弟の水野高俊を養子とした。

 水野致氏の弟と伝えられる。致氏の死後、その子・致顕が幼年のため、後見をしたとされる。建武2年(1335年)、水野の中の郷に大平山城を築城。建武3年(1336年)、藤内太夫の招聘によって水野の地を訪れた覚源禅師(平心処斎)を援助し、定光寺を開創する。
  致顕が長ずると水野の支配権をめぐって争い、観応の擾乱が起こると致顕が足利直義方に属したのに対して、致国は足利尊氏方に属した。観応2年(1351年)2月、尊氏に左衛門尉の吹挙を求め、著判を得る。しかし最終的に致国の権益は致顕の系統に吸収されたと考えられ、致国のその後の消息も不明である。

水野致顕 水野致高

 父・致氏の死後、致顕が幼少のため、叔父の致国が総領として後見したとされるが、やがて水野氏の主導権をめぐって致国と争う。観応の擾乱が起こると致国が足利尊氏方に属したのに対して、致顕は足利直義方に属し、観応元年(1350年)、直義方の今川朝氏に従って黒田宿の合戦に参戦し、同年、美濃・青野ヶ原の合戦に参戦し、高師直軍と戦う。
  観応2年(1351年)、直義に従って関東に移る。文和元年(1352年)2月に直義が没すると、翌閏2月には南朝方の新田義興に従って、武蔵・相模において尊氏軍と戦う。同年5月、義興より上総国須賀行内細草郷・武蔵国足立郡花俣郷が与えられた。同年6月、左衛門尉に推挙された。
  一連の武蔵野合戦の後、関東における南朝方の挙兵が鎮圧されて以降の消息は不明であるが、最終的には水野郷に帰還し、致国の権益を吸収して、伝来の所領を支配するに至ったと考えられる。

 応永19年(1412年)12月24日、称光天皇より備中守に補任されるも、4日後の28日に入尾城にて没した。瀬戸市水野の感応寺に葬られた。
水野良春

 元弘元年(1331年)の元弘の乱では護良親王を擁した吉野金峯山寺僧兵団の将として戦う。建武の新政が始まると郷里の志段味郷に帰るも、延元元年(1336年)には吉野に戻り南朝方として転戦する。その後、再び志段味郷に帰り志段味城を築城。また康安元年(1361年)には志段味郷の南に進出して開墾し、新居村を開いて新居城主となった。
  応安元年(1368年)、弟の報恩陽を定光寺から招聘し、新居村に退養寺を開山。応安7年(1374年)に没し退養寺に葬られた。
  なお、水野氏の末裔の多い新居村には、良春が吉野の修験道から持ち込んだとされる棒の手が伝えられた。良春の号「無二」をとって無二流と称され、現在では尾張旭市を代表する伝統芸能の一つとなっている。