清和源氏

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毛受照昌 毛受照景
 尾張国春日井郡稲葉村の人。新居城主水野良春の4世孫で、稲葉村に移住して開墾し、姓を「毛受」と改めたと云う。

 兄弟三人は、ともに柴田勝家に仕えた。なかでも世に知られたのが次男の照景である。照景は12歳ではじめて柴田勝家に仕え、のちに小姓頭となり、累進して一万石の封を受けるまでに出世した。
 天正11年4月、近江国賤ケ岳において柴田軍と秀吉軍は対峙し、結局、柴田勝家が秀吉の軍に敗れることになる。勝家は劣勢を見極め、側近の諌言に従い、北ノ庄城へ退去することを決した。このとき、照景は勝家に馬印を請い、勝家の身代わりとなって討死する許しを得た。勝家の落ちていくのを見届けた照景は兄の茂左衛門,弟の庄兵衛をはじめ、名を惜しむ柴田家の士ら200人とともに群がる秀吉勢と戦った。筒井順慶の家臣島左近が槍を付けたが、そのあまりに若いことから影武者と見破り、「名を名乗れ」と迫ったが、あくまで勝家と名乗って討死を遂げた。享年25歳。兄茂左衛門,弟の庄兵衛ら柴田方の兵は一兵あまさず討死した。
 戦後、秀吉は毛受照景の忠節に感じ入って、その遺族を厚遇したと伝えられる。照景には、賤ケ岳合戦の年に生まれた幼子がいたようで、孫の信友の代に尾張徳川氏の家臣となったと系図に記されている。