正親町源氏

K821:智仁親王  (正親町天皇)― 智仁親王 ― 広幡忠幸 G941:広幡忠幸


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広幡忠幸 広幡豊忠

 1624年(寛永元年)に正親町天皇の皇孫で八条宮家(桂宮家)の始祖である八条宮智仁親王の第三王子として八条宮邸にて生まれる。1649年(慶安2年)12月11日、尾張藩主・徳川義直の長女・京姫と婚約、同時に徳川義直の猶子となる。1650年(慶安3年)1月3日、加冠の儀を行い元服する。同年2月9日、京都を出発、2月13日名古屋に到着する。以後、名古屋城で暮らす。同年2月28日、京姫と結婚する。尾張藩からは合力米3000石を献上されていた。
 しかし、1660年(万治3年)4月には京都に戻り、朝廷に対し松殿家(1646年(正保3年)に途絶えていた)を再興するなどして、公家に戻ることを願う。一方、実兄の智忠親王は、皇族になることを進言した。
 1663年(寛文3年)11月、霊元天皇より源姓が下賜され臣籍に下ることとなった(正親町源氏)。12月には「広幡」の家号も与えられ、新たに家を興すことが許された。広幡家の公家としての家格は村上源氏嫡流の久我家と同じく、清華家とされた。
 1665年(寛文5年)に名古屋から京都へ戻り、以降は公家町に邸宅を構え、朝廷に出仕した。同年中に従三位・権中納言を拝命し、さらに左中将に任じられている。1667年(寛文7年)に正三位となり、1668年(寛文8年)には権大納言に就任したが、その翌年に薨去している。享年46。なお、1667年(寛文7年)3月16日に広幡家の所領として近江国蒲生郡など1000石を賜っているが、豊忠の代に家禄が500石に減らされ、広幡家は以後この家禄で明治維新を迎える。

 江戸時代前期から中期の公卿。主に霊元天,東山天皇,中御門天皇の3朝にわたり仕え、官位は従一位内大臣まで昇った。
 寛文9年(1669年)に久我家から広幡家に養子入りした。先祖の久我晴通は近衛家からの養子であり、豊忠は近衛家の血筋を引いていた。養父の広幡忠幸は八条宮智仁親王を父に持つ旧皇族である。そのため広幡家は新家ながら清華家の格式を与えられている家柄であった。寛文10年(1670年)に叙爵し、以降、清華家の当主として速いスピードで昇進し、左近衛少将や左近衛中将を経て、天和3年(1683年)には霊元天皇中宮・鷹司房子の中宮権亮に任命されるとともに従三位となり、公卿に列する。さらにその後、権中納言,踏歌節会外弁をへて、元禄5年(1692年)に権大納言に就任。宝永元年(1704年)に辞するまでの12年にわたって務めあげた。その後の宝永7年(1710年)にももう一度権大納言に任ぜられ、享保5年(1720年)までの10年にわたって務めた。この間の享保4年(1719年)には右近衛大将,右馬寮御監にも任じられる。享保8年(1723年)2月4日内大臣に就任したが、同月8日に辞職。享保11年(1726年)に従一位に叙された。


広幡前豊 広幡経豊

 江戸時代中期の公卿。桜町天皇から後桃園天皇に至る4朝にわたって仕え、官位は従一位内大臣まで昇った。初名は輔忠といったが、近衛内前の猶子に入り、「前」の字の偏諱を賜って前豊と改名している。
 延享2年(1745年)に叙爵してから累進し、侍従,右近衛権少将,右近衛権中将などを歴任し、宝暦4年(1754年)に従三位に達して公卿に列した。また、この間の宝暦元年(1751年)に近衛内前の猶子となる。その後も権中納言,権大納言,踏歌節会外弁などをつとめ、明和6年(1769年)に右近衛大将,右馬寮御監に就任した。明和7年(1770年)、後桜町天皇の譲位・院政の開始にあたってその院執権となり、安永3年(1774年)まで院庁に奉仕した。また明和8年(1771年)には新たに皇太后となった一条富子(桃園天皇女御・御桃園天皇生母)の皇太后大夫も兼務していたが、こちらはすぐに辞職している。安永4年(1775年)に内大臣に叙せられたが、同年のうちに辞職。天明元年(1781年)には従一位に達した。天明3年(1783年)に薨去。享年42。 

 江戸時代後期の公卿。光格天皇,仁孝天皇の2代にわたって仕え、官位は従一位内大臣まで昇った。
 寛政2年(1790年)に従五位下に叙爵。以降清華家の当主としてはやいスピードで昇進して、侍従,左近衛権少将,右近衛権中将,中宮権亮となり、寛政7年(1795年)には従三位となり公卿に列する。文化8年(1811年)には光格天皇中宮・欣子内親王の中宮権大夫となり、文化9年(1812年)には踏歌節会外弁をつとめ、また権大納言となった。文政4年(1821年)に踏歌節会内弁をつとめる。文政7年(1824年)には内大臣に任じられるも辞職する。文政8年(1825年)に従一位を授与された。


広幡基豊 広幡忠礼

 享和2年(1802年)に叙爵。清華家当主として速いスピードで昇進し、文化10年(1813年)には従三位となり、公卿に列する。その後も権中納言,踏歌節会外弁,権大納言,踏歌節会内弁などを務め、弘化4年(1847年)に皇太后となった鷹司祺子の皇太后宮大夫となる。嘉永2年(1849年)に右近衛大将,右馬寮御監となる。安政2年(1855年)の孝明天皇の遷幸に際して、基豊は居飼2名,随身6名,見寺2名,舎人長1名,馬副8名,傘1名の計20名を集めて天皇に供奉した。安政4年(1857年)に従一位・内大臣となるも同年に薨去。


 江戸時代後期の公卿、明治時代の政治家。江戸時代の公卿としては仁孝天皇,孝明天皇,明治天皇の3代にわたって仕え、正二位・内大臣まで昇った。明治時代には貴族院議員などをつとめて政治家として活躍した。
 文政9年(1826年)に叙爵してから清華家の当主として速いスピードで昇進し、侍従,右近衛権少将,左近衛権中将などを歴任して、天保11年(1840年)には従三位となり公卿に列した。その後も踏歌節会外弁,権中納言などをつとめ、安政4年(1857年)には権大納言となった。しかし、この役職にあった際の文久3年(1863年)に幕府による陰謀事件八月十八日の政変に巻き込まれて参内停止にされた。その後、赦免されて慶応3年(1867年)には内大臣に叙せられた。明治時代には侯爵となり、帝国議会が開かれると貴族院議員に選任されて活躍した。