<神皇系氏族>天神系

KD10:児玉経行  大部豊日 ― 大部船瀬足尼 ― 児玉惟行 ― 児玉経行 ― 児玉就兼 KD11:児玉就兼

リンク
児玉就兼 児玉就光

 毛利興元,幸松丸,元就の三代に仕えた。永正4年(1507年)の安芸国高田原の戦いにて戦功を挙げ、毛利興元から感状を与えられる。後に毛利元就の奉行人となり、その側近として活動した。
 永禄3年(1560年)1月23日に死去。

 毛利元就,隆元,輝元の三代に仕えた。天文9年(1540年)の吉田郡山城の戦い、天文11年(1542年)の月山富田城の戦いに参加。毛利元就が大内氏からの独立した後は、天文23年(1554年)に厳島の戦いの前哨戦である、野間隆実が籠もる矢野城攻略や折敷畑の戦いにも出陣した。防長経略後の永禄9年(1569年)には周防国で起きた一揆の鎮圧にも出陣した。
 また、就光は内政にも秀でており、毛利氏の奉行制度の中で政務を担当する番衆の1人に任ぜられている。天正18年(1590年)4月12日に死去。

児玉元村 児玉忠碩

 毛利元就,隆元,輝元の三代に仕えた。永禄6年(1563年)に隆元が急死すると、隆元の死を毒殺と考えた元就は、永禄11年(1568年)の伊予国遠征の帰路で和智誠春・柚谷元家(湯谷久豊)兄弟を隆元暗殺の犯人として厳島の摂受坊に監禁した。伊予遠征時、元村は佐武美久と共に厳島の守将を務めていたが、直後の大友氏との戦いでは御使として豊前国へ赴いている。ところが同年12月16日、監禁されていた和智兄弟が摂受坊を脱走して厳島神社の本殿に立て籠もる事件が発生し、厳島神社の儀式祭礼が行えなくなってしまった。これを憂慮した元就は近臣の熊谷就政を厳島へ派遣。元村も応援のために豊前国から帰国した。そして永禄12年(1569年)1月24日、熊谷就政が厳島神社の回廊に潜入し、和智誠春の隙を突いて組み伏せ、元村と協力して討ち果たした。兄が討たれたと知った柚谷元家も観念して出頭したため、社頭において誅殺した。
 同じく永禄12年(1569年)10月11日、豊後国の大友宗麟の支援を受けた大内輝弘が大内輝弘の乱を起こすも、10月25日に周防国佐波郡富海で自害。この時、右田ヶ岳城に在城していた元村は、城の付近を逃亡する大内輝弘軍の残党を追撃し戦功をたてた。天正12年(1584年)3月21日に死去し、嫡男の元光が後を継いだ。

 半九郎は文人気質に富み、小笠原流の礼式を教授し、向かいの家に住む漢学者・島田蕃根と語らう事を楽しみとしていた。また、行政能力にも恵まれ、評定役や代官、藩校・鳴鳳館の目付などを歴任した。後に杉山茂丸は『児玉大将伝』において半九郎の人物像を「権力を笠に着て徒党を組んだり、私利を営んだりする事を嫌う清廉な人物であったが、その一徹な気質はやや偏狭なきらいがあり、政治家向きの性格ではなかった」と評している。
 嘉永5年(1852年)閏2月25日、嫡男・源太郎が生まれる。源太郎が生まれた時に半九郎は島田蕃根の家に赴き、4,5人で詩文に興じていたが、児玉家の家人が男子誕生を告げたため、歓喜して直ちに島田家から帰宅し祝杯を挙げた。
 嘉永6年(1853年)6月の黒船来航により、徳山藩でも開国か攘夷かで政論が盛んに行われるようになった。半九郎は早くから尊王攘夷を唱えていたが、それが藩内の対立派閥に疎まれて蟄居閉門を命じられ、安政3年(1856年)10月19日に憂悶の内に死去。享年46。嫡男の源太郎はまだ5歳と幼く、半九郎の喪が明けた後に養子の次郎彦が半九郎の長女・久子と婚姻して、その家督を継いだ。

児玉次郎彦 児玉源太郎

 身の丈6尺と体躯強大で、剣技・銃術に秀で、和漢の歴史に通じたという。また、水戸学に深く傾倒し、長州藩の久坂玄瑞,入江九一,寺島忠三郎,前原一誠らと親交があった。
 安政3年(1856年)10月19日、養父の半九郎が死去。半九郎の嫡男の源太郎はまだ5歳と幼く、半九郎の喪が明けた後に次郎彦が半九郎の長女・久子と婚姻して、その家督を継いだ。
 万延元年(1860年)同じく徳山藩出身の飯田忠彦が幕府に罪を問われて、江戸に憂囚され、その著作である『大日本野史』及び『諸家系譜』などを伏見奉行・林忠交に取り上げられた時に、有栖川宮熾仁親王の命を奉じ、林邸に往来し、弁論数回にしてこれを取り返した。
 文久2年(1862年)、河田佳蔵らと同じく京都に入って周旋方となり、翌文久3年(1863年)帰国して目付役に任じられ、京都留守居役を兼ねた。同年6月に姉小路公知が暗殺され(朔平門外の変)、京都が騒然となると藩主の命で直ちに上京したが、8月に帰藩し、12月に藩校鳴鳳館の助訓役兼寮長となり、尊攘の大義を説いて後進の子弟を教育した。
 元治元年(1864年)7月14日、大坂で禁門の変の報を聞いて切歯して帰国し、同年8月9日に河田佳蔵らと共に保守派の富山源次郎の暗殺を謀った。河田佳蔵が富山源次郎と談判をしている間に次郎彦が富山邸の庭に潜り込んで斬り込みの機会を窺ったが、用人に発見されて暗殺は失敗。
 8月11日に本城清,江村彦之進,次郎彦の実兄・浅見安之丞が藩吏に捕らえられ、同日の晩に次郎彦は実家の浅見家で実父・浅見栄三郎と善後策を協議した。そこへ義弟の源太郎が訪れ、藩庁からの達しによって次郎彦に自宅謹慎が命じられたことを伝えた。そのため次郎彦は自宅へ戻ったが、翌8月12日の早朝、自宅を訪ねてきた親類の塩川某に玄関先で背後から斬られた上、数人の刺客によって一斉に斬りつけられた。次郎彦は塩川某へ一太刀返したが、そのまま玄関先で絶命。享年23。当時、自宅には養母の元子、妻の久子、義妹の信子、生まれたばかりの長男・文太郎がおり、義弟の源太郎は親類の遠藤家へ助力を求めに行っている最中の出来事であった。ほどなくして保守派による児玉家への処分が下って、児玉家は一人半扶持に格下げされる。更に同年12月には横本町の邸宅も没収され、家名断絶となった。
 その後、長州藩において高杉晋作らによって保守派が失脚すると、徳山藩主・毛利元蕃は徳山七士の家を復興してその遺族を厚遇した。慶応元年(1865年)6月29日には毛利元蕃から次郎彦に対する赦免状が交付された。これに対し、児玉家の親類一同は7月3日に源太郎の家督相続を願い出て許可され、源太郎は中小姓に取り立てられて25石の禄を与えられた。これにより児玉家の家名は再興された。また、さらにその3ヶ月後には元々の馬廻り役に任じられ、禄も100石へ戻されている。
 明治31年(1898年)には徳山七士の7名全員に従四位が贈られ、徳山毛利家当主・毛利元功のたっての願いで徳山七士全員は明治天皇の命によって例外的に靖国神社に合祀された。また、墓所は山口県周南市の興元寺の墓地である隠居山墓地の一角の児玉家墓所にある。

 源太郎は義兄の次郎彦に養育されることとなり、万延元年(1860年)に藩校の興譲館に入学し、文学を桜井魁園と本城清に、撃剣を神道無念流の小田劫右衛門と一刀流の浅見栄三郎に、槍術を大島流の浅見安之丞に学んだ。その他に父の友人の漢学者で教学院主を務めた島田蕃根にも師事している。
 元治元年(1864年)8月12日、義兄・次郎彦が対幕恭順派によって暗殺され、児玉家は一人半扶持に格下げされる。さらに邸宅も没収され家名断絶となった。しかし、源太郎の母は家名を辱めないように努めつつ、源太郎らの教育を怠らず、事あるごとに『曽我物語』を読み聞かせた。やがて藩論が倒幕派に傾き、家名断絶の翌年の慶応元年(1865年)に藩主・毛利元蕃から家名再興を許された。
 明治元年(1868年)に徳山藩の献功隊に入隊。同年10月に半隊司令(小隊長)として秋田に出陣した後、明治2年(1869年)の箱館戦争に参加し初陣を飾る。同年5月18日に品川に凱旋し、8月には兵部省御雇として仕官し、陸軍に入隊する。明治7年(1874年)の佐賀の乱には大尉として従軍し戦傷を受けている。
 熊本鎮台准参謀時の明治9年(1876年)には神風連の乱を鎮圧。同鎮台参謀副長(少佐)時の明治10年(1877年)には西南戦争の熊本城籠城戦に参加。鎮台司令長官の谷干城少将を良く補佐し、薩摩軍の激しい攻撃から熊本城を護りきる。この経験で衛生問題や兵站問題に苦しんだことが後に日清戦争に活かされることになる。
 台湾総督時代(1898-1906年)には、日清戦争終了後の防疫事務で才能を見いだした後藤新平を台湾総督府民政局長に任命し、全面的な信頼をよせて統治を委任した。後藤は台湾人を統治に服せしめるため植民地統治への抵抗は徹底して鎮圧しつつ、統治に従ったものには穏健な処遇を与えるという政策をとり、統治への抵抗運動をほぼ完全に抑えることに成功した。二人の統治により日本は台湾を完全に掌握することに成功したといえる。
 日露戦争開戦前には台湾総督のまま内務大臣を務めていたが、明治36年(1903年)に対露戦計画を立案していた陸軍参謀本部次長の田村怡与造が急死したため、参謀総長・大山巌から特に請われ、内務大臣を辞して参謀本部次長に就任する。なお、関係者が降格人事とならないように児玉を台湾総督に留任させていた。日露戦争のために新たに編成された満州軍総参謀長をも引き続いて務めた。
 満州軍総参謀長として満州に渡って以降は遼陽会戦,沙河会戦,黒溝台会戦,奉天会戦などで総司令の大山巌元帥を補佐、また12月初頭には旅順攻囲戦中の第三軍を訪れている。
 奉天会戦勝利後の明治38年(1905年)3月、児玉は、明治天皇へ奉天会戦の戦況報告を上奏することを名目に東京へ戻り、政府首脳の意見を早期戦争終結の方向にまとめる活動に着手した。
 早期講和を目指す児玉の軍事戦略は、満洲での敵野戦軍撃破や韓国北部からロシア軍を撃退するのみならず、樺太,ウラジオストク方面へ攻勢をかけることで、ロシアに痛撃を与えることで、ロシアを講和のテーブルにつかせるというもので、近年では「政治攻勢の一端としての軍事攻勢」として高く評価されている。
 ただし、児玉もハルビンやウラジオストク攻略は、①鉄道・道路といった兵站路線整備の困難、②初級将校の不足、③ハルビン攻略には三十七個師団が必要だがこのためには二十四個師団を増設する必要があり国家財政上難しい、ことを理由に事実上不可能と考えており、満洲奥地へ引きずり込まれることを警戒していた。
 日露戦争後、参謀総長に就任。また南満洲鉄道創立委員長も兼務するが、委員長就任10日後の明治39年(1906年)7月23日、就寝中に脳溢血で急逝した。享年55。墓所は東京都府中市の多磨霊園にある。また神奈川県藤沢市江ノ島および山口県周南市にある児玉神社に祭神として祀られている。

児玉秀雄 児玉友雄

 千葉県の佐倉英学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)から東京府尋常中学校(後に府立一中を経て現在の東京都立日比谷高等学校)入学、同期に渋沢元治など。旧制第二高等学校を経て、1900年(明治33年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科卒業、大蔵省入省。
 同年11月、文官高等試験合格。主に理財局や、臨時煙草製造準備局などを経て、1905年(明治38年)2月、大本営御用掛。日露戦争において遼東守備軍司令部付、満州軍総司令部付を経て、同年9月、煙草専売局事務官兼大蔵書記官に復帰。1906年、父源太郎の死去により子爵、翌年父の功労により伯爵。
 その後は朝鮮に渡り、朝鮮総督府総務部会計課長,秘書官、1910年(明治43年)10月、朝鮮総督府総督官房会計局長,兼秘書官,貴族院議員(伯爵議員),総務局長などを経て、1916年(大正5年)10月からおよそ2年間、内閣書記官長に就任。
 その後も賞勲局総裁,関東長官、1929年(昭和4年)から朝鮮総督府政務総監。
 その後は貴族院議員として貴族院研究会にて活躍。教育方面では、父・源太郎も校長を務めた成城学校(現在の成城中学校・高等学校)で第10代校長を務める。
 1934年(昭和9年)10月、岡田内閣の拓務大臣、1937年(昭和12年)2月、林内閣の逓信大臣、1940年(昭和15年)1月~7月、米内内閣の内務大臣、1942年(昭和17年)、陸軍軍政最高顧問として第16軍(今村均司令官)軍政下のジャワに赴任、1944年(昭和19年)、小磯内閣の無任所国務大臣、1945年(昭和20年)2月~4月、同内閣で文部大臣就任。戦後、戦争指導政府の閣僚として公職追放中に病没。

 学習院中等科を経て、1902年11月、陸軍士官学校(14期)を卒業、翌年6月、歩兵少尉に任官し近衛歩兵第2連隊付となり、1904年2月、日露戦争に出征。1910年11月、陸軍大学校(22期)を卒業した。
 参謀本部員兼軍務局課員,近衛師団参謀,参謀本部員などを経て、1914年5月、イギリスに私費留学し、翌年、イギリス軍に従軍した。帰国後、参謀本部員,陸軍省軍務局課員,兼航空部事務官,兵器局課員,軍務局課員(軍事課)、近衛歩兵第3連隊付,歩兵第34連隊長,参謀本部課長などを歴任し、1929年8月、陸軍少将に進級。
 歩兵第2旅団長,朝鮮軍参謀長などを経て、1933年8月、陸軍中将となった。下関要塞司令官,第3独立守備隊司令官,第16師団長,西部防衛司令官などを歴任し、1938年7月、予備役に編入された。同年9月、召集を受け台湾軍司令官に就任し、翌年12月、召集解除となった。

児玉常雄 児玉九一

 陸軍中央幼年学校を経て、1905年(明治38年)3月30日に陸軍士官学校(17期)を卒業し、同年4月21日に工兵少尉に任ぜられる。1907年(明治40年)12月21日に工兵中尉に昇進後、陸軍砲工学校(15期)高等科を卒業、更に員外学生として在学し、1913年(大正2年)7月10日には東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業した。1914年(大正3年)9月9日に工兵大尉に昇進した。
 その後、陸軍兵器本廠付等を経て、1921年(大正10年)4月20日に工兵少佐に昇進し、1923年(大正12年)4月1日、航空局航空官(高等官四等)を任ぜられる。1925年(大正14年)3月18日工兵中佐に昇進後、同年5月1日航空兵中佐に転科した。さらに、1928年(昭和3年)8月10日に航空兵大佐に昇進し、1932年(昭和7年)1月28日に逓信省事務官を仰せつけられ、同年9月19日予備役に編入された。     
 その後、満洲航空株式会社副社長となり、同社社長,中華航空株式会社総裁,大日本航空株式会社総裁を歴任した。

 1912年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。第一高等学校を経て、1919年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。1918年10月、高等試験行政科試験に合格。1919年、内務省に入り地方局属となる。
 以後、静岡県志太郡長,静岡県警視,内務事務官,復興局事務官,内閣総理大臣秘書官,鉄道省事務官,内務書記官,神社局総務課長,兼造神宮使庁主事,大臣官房会計課長などを歴任。
1936年9月、島根県知事となり、以後、内務省神社局長兼造神宮副使,福岡県知事,愛知県知事,厚生次官,東京都次長などを歴任。
 1945年8月、中国地方総監・大塚惟精が原爆投下により被爆死したため、その後任に就任。1945年10月11日から同月27日までの16日間、広島県知事を兼任した。同年10月31日、地方総監府の廃止により失職。その後、中国地方行政事務局長や新宿御苑保存協会副会長などを務めた。
 内務省神社局長時代は明治神宮外苑競技場の改築案(未遂)に、戦後の明治神宮外苑管理部長時代は国立競技場建設に、それぞれ周囲の景観を守るよう訴えた。     
 1960年5月23日死去。享年66。