宇多源氏

G787:山崎憲家  源 雅信 ― 源 扶義 ― 佐々木行定 ― 山崎憲家 ― 山崎家盛 G788:山崎家盛

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山崎家盛 山崎家治

 山崎堅家の死後、長男・家盛が家督を継いで三田城主となった。加藤清正の室は家盛の妹であり、もう一人の妹は別所吉治に嫁いでおり、いずれも有力者であることから、山崎氏が秀吉の家臣団の中で相当高いステータスを有していたことがわかる。
 関ヶ原の戦いにおいて、家盛は西軍に組して敗軍の将となってしまった。池田輝政と姻戚関係のあったことが幸いして罪一等は減じられたものの、結局国替となり、慶長5年(1600年)の冬、因州若狭城に転封され、岩美郡などを領し鬼ヶ城を居城とした。慶長19年(1614年)10月18日京都で没している。

 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、翌年の大坂夏の陣に徳川方として出陣し活躍した。
 元和3年(1617年)、大坂の陣の功によって、因幡国若桜から備中国成羽3万5千石に加増転封され、新田開発などに尽力している。以後、福島正則が改易されたのちの備後三原城の守備、大坂城築城工事における石垣工事を担当するなど幕府から篤い信頼を勝ち得た。そして、その手腕をかわれて寛永16年(1639年)には肥後天草4万石への加増転封を受け、島原の乱で荒廃した天草地方の復興に功績をあげた。それらの功によって、同18年には讃岐国丸亀5万3千石に加増転封された。家治は丸亀城の築城に着手すると城下町の経営・整備を行い、今日の丸亀の基礎を築いた。

山崎俊家 山崎豊治

 元和3年(1617年)、備中国成羽藩主だった山崎家治の嫡男として生まれる。
 寛永18年(1641年)12月、讃岐国丸亀藩の次期藩主として従五位下・志摩守を叙任された。慶安元年(1648年)3月17日、父・家治の死により同年6月14日に家督を継いだ。この際、弟の勝政に1,000石を分与した(ただ、翌年に勝政が死去したため、その所領は俊家に還付されている)。慶安3年(1650年)、幕府より大火消防役を命じられている。一方終生にわたり丸亀城の石垣や堀などの修築に尽力した。慶安4年(1651年)10月26日、丸亀にて死去した。享年35。家督は長男の治頼が継いだ。


 元和5年(1619年)、備中国成羽藩主だった山崎家治の次男として成羽で生まれる。
 慶安4年(1651年)10月、兄・俊家の死去により僅か3歳で家督を継いだ山崎治頼の後見人として、讃岐国仁保5,000石を分与される。明暦3年(1657年)3月6日、甥で丸亀藩主・山崎治頼が8歳で早世したため、丸亀藩山崎家は無嗣断絶のため改易となった。同年4月28日、豊治は幕府より治頼の名跡相続を認められ、讃岐国仁保5,000石の所領は安堵されることとなり、万治元年(1658年)4月に徳川家綱に謁見した。
 同年5月、播磨龍野藩主の京極高和が丸亀藩へ転封されることに伴い、幕府の計らいにより所領を旧領の備中国川上郡成羽5,000石に移されることとなった。豊治は同年8月に幕府より成羽に赴くことを許されお国入りを果たしている。父の山崎家治が寛永16年(1639年)に肥後国富岡藩(天草)へ転封して以来、山崎家が19年ぶりに成羽に戻ることとなった。なお、このお国入りが山崎家代々の習わしとなり、後年、交代寄合表向御礼衆に加わる契機となった。豊治は成羽にお国入りすると、前藩主の水谷勝隆の転封に伴い放置されていた築城工事を引き継ぐ形で、成羽陣屋を完成させている。元禄元年12月9日(1688年12月31日)に隠居を願い出て許され、家督は3男・山崎義方に譲った。その後、長寿を全うし元禄13年12月24日(1701年2月1日)に82歳で成羽にて死去した。 

山崎義方 山崎信盛

 備中国成羽領2代領主。寛文7年(1667年)、備中国成羽領初代領主・山崎豊治の3男として成羽で生まれる。
 延宝3年(1673年)10月26日、次兄・常治が16歳で早世したことにより世継となった。翌延宝4年(1676年)12月15日、10歳の時に徳川家綱に拝謁した。その後、元禄元年12月9日(1688年12月31日)に父・豊治の隠居に伴い、成羽領5,000石の家督を相続した。翌元禄2年(1689年)6月、幕府の許可を得て初めて成羽へのお国入りを果たす。宝永元年(1704年)、義方は尊崇していた江戸の愛宕神社を成羽の愛宕山頂に勧請し、愛宕神社に白谷提にて花火を奉納。この花火は現在でも「成羽愛宕大花火」として毎年7月に開催されている。なお、江戸時代を通じて山崎氏の江戸屋敷は麻布愛宕下に所在していた。また領主在任中は、罪人の預かりなどを勤めている。
 宝永5年(1708年)6月5日、大阪中之島にある蔵屋敷に滞在中に死去。享年42。家督は嫡男の尭治が相続した。 

 備中国成羽領4代領主。享保13年(1728年)7月8日、備中国成羽領3代領主・山崎尭治の次男として成羽で生まれる。
 延享2年(1745年)12月18日に父・尭治が死去し、同年12月26日に成羽領5,000石の家督を相続した。続いて延享4年(1747年)6月13日、幕府の許可を得て成羽へのお国入りを果たす。しかし、宝暦8年(1758年)9月30日、31歳の若さで江戸にて死去。家督は信盛の嫡母豊後国森藩4代藩主・久留島通政の養女の従兄にあたる森藩5代藩主・久留島光通の6男・通有を末期養子として迎え家督を継がせることとなった。通有は家督相続に伴い備中国成羽領5代領主・山崎義俊として成羽領5,000石の家督を継承した。
 信盛の死去により、公式の記録では山崎氏の男系子孫は絶えることとなった。ただし、成羽領2代領主・山崎義方の娘と、讃岐国多度津藩初代藩主・京極高通の間に多度津藩2代藩主・京極高慶が生まれたことにより、多度津藩京極家は山崎氏の女系子孫として存続した。多度津藩京極家とは、幕末に讃岐多度津藩6代藩主・京極高典に当初、男子が生まれないことから、備中国成羽藩初代藩主・山崎治正の6男・京極寿吉を養子に出すなどの縁があった。なお、子孫に関しては、讃岐国丸亀藩3代藩主・山崎治頼の死去で宗家が無嗣断絶となった際に、山崎家治の3男・山崎弘家の子孫が旧領の肥後国天草郡御領村に帰農し銀主となったという説、一族がそのまま讃岐国内に土着したという説などが残っている。また、山崎氏の一族で豊臣秀吉の馬廻を勤めた山崎定勝の子孫が残っている説など、諸説言い伝えがあるものの、いずれも確たる記録は残っていない。 

山崎義俊 山崎義徳

 備中国成羽領5代領主。元文5年(1740年)7月11日 、豊後国森藩5代藩主・久留島光通の6男として江戸にて生まれる。
 宝暦8年(1758年)12月3日、父・光通の義妹(従妹)の夫で備中国成羽領3代領主・山崎尭治の嫡男・山崎信盛が急逝したため、末期養子として成羽領5,000石の家督を相続した。家督相続の際に改名し山崎義俊となった。宝暦9年(1759年)3月15日、家督相続許可の御礼として9代将軍徳川家重に拝謁している。同年6月12日、幕府の許可を得て成羽へのお国入りを果たす。領主在任中は養父信盛と同様に罪人預かりなどを命じられている。安永7年(1778年)12月12日、幕府に隠居を願い出て許されたため、家督である成羽領5,000石を長男・義孝に譲り隠居した。ただ、長男・義孝は翌年早世し、さらにその遺跡を継いだ次男・義苗、4男で筑前国秋月藩主の黒田長堅も相次いで早世するなど、息子達に次々先立たれ不幸が続いた。最終的に3男・義徳が成羽領5,000石の家督を継承した。享和元年(1801年)7月8日、江戸にて死去。享年62。 

 備中国成羽領8代領主。明和6年(1769年)6月23日 、備中国成羽領5代領主・山崎義俊の4男として成羽で生まれる。
 天明元年(1781年)7月26日、次兄・義苗が急逝したことに伴い、同年9月11日に成羽領5,000石の家督を相続した。天明8年(1788年)9月1日、徳川家斉に拝謁。続けて寛政元年(1789年)6月21日、幕府の許可を得て成羽へのお国入りを果たす。領主在任中は輪王寺日光門主の上京の付添を命じられるなど、幕府御用を勤めている。文化10年(1813年)12月20日、江戸にて死去した。享年は45。長男・義尊は早世していたため、次男・義高が家督である成羽領5,000石を相続した。

山崎治正

 交代寄合表向御礼衆(備中国成羽領11代領主)。後期備中国成羽藩の初代藩主となる。文政4年(1821年)10月1日、交代寄合表向御礼衆大和国田原本領主・平野長興の次男として江戸で生まれる。
 文政10年(1828年)、叔父で備中国成羽領の第10代領主・山崎義柄の死去に伴い、第11代領主・山崎義厚と改名し成羽領5,000石の家督を相続した。天保6年(1835年)3月15日、家督相続後初めて11代将軍・徳川家斉に拝謁した。翌天保7年(1836年)12月27日、幕府より徳川将軍家の別邸浜御殿(現在の浜離宮庭園)の大手門番を命じられる。天保8年(1837年)6月18日、初めてお国入りする許可を得たことにより浜御殿大手門番を辞任している。慶応元年(1865年)2月、農兵隊などを結成し、領内の治安維持を図った。
 明治元年(1868年)閏4月、飛領浅口郡連島の新田開発により所領が12,746石に増加している旨を新政府に申し立てた。結果、同年6月20日に明治新政府はこの申し立てを認め、成羽藩の立藩を許可する(維新立藩)。義厚は大名に昇格すると同時に、名を治正と改めている。翌明治2年(1869年)正月晦日に隠居を申し出て許されたため、家督である成羽藩12,746石は長男の治祇に譲った。隠居後は竹翁と称した。明治9年(1876年)3月6日、死去。享年56。