| OD05:織田信雄 | 織田親真 ― 織田敏定 ― 織田信秀 ― 織田信長 ― 織田信雄 ― 織田高長 | OD06:織田高長 |

| リンク | OD07 |
| 織田高長 | 織田長頼 |
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父・信雄の改易後、はじめは長兄の秀雄、次いで細川忠興、さらに前田利常のもとに身を寄せた。前田家の部将として、大坂夏の陣に参加する。四兄・信良の死去により、信雄は高長を前田家から呼び戻し、甥・信昌の後見にあたらせた。一説によれば、細川家に身を寄せていたときは長岡主膳を称し、藪政一の娘と結婚し、龍王城主になっていたという。慶長16年(1611年)に細川家を去り、前田家に身を寄せたという。 |
元和6年(1620年)、加賀国にて生まれる。慶安元年(1648年)12月晦日、従四位下に叙任する。後に侍従に任官する。万治2年(1659年)12月23日、父・高長の隠居によって家督を相続する。翌年9月3日、弟・長政に3000石を分け与える。これにより、宇陀松山藩の石高は2万8235石余となる。なお、長政は幕府の交代寄合に加えられる。長政の子の信明は、高家旗本になる。 |
| 織田信武 | 織田信休 |
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明暦元年(1655年)、第3代藩主・織田長頼の長男として江戸で生まれる。幼名は乱麻呂。寛文6年(1666年)7月10日、将軍・徳川家綱に初めて御目見し、寛文12年(1672年)12月28日には従四位下出雲守に叙任した。 |
延宝6年(1678年)8月17日、江戸において誕生する。元禄3年(1690年)2月15日、将軍・徳川綱吉に御目見する。元禄6年(1693年)12月23日、従五位下壱岐守に叙任する。元禄8年(1695年)2月5日、家督を相続する。ただし、前年父・信武がお家騒動「宇陀崩れ」で自殺したため、8,000石を減らした上での転封を命じられた。同年4月10日、丹波氷上郡,何鹿郡,天田郡内で2万石を与えられることになった。こうして織田家は、大和宇陀松山藩2万8,000石から丹波柏原藩2万石に転封になった。元禄11年(1698年)4月21日、藩主として初めてお国入りする許可を得る。 |
| 織田信憑 | 織田信守 |
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寛保元年(1741年)、高家旗本・織田信栄の次男として江戸において誕生する。宝暦8年(1758年)3月26日、柏原藩主・織田信旧の長男・元丸、次男・勇千代が早世したため、その養子となる。なお、同年養父・信旧に3男の信応が生まれた。そのため、寛政元年(1789年)12月、信憑は義弟信応を養嗣子に迎えた。宝暦10年(1760年)7月1日、将軍徳川家治に御目見する。 |
享和元年(1801年)6月14日、父・信憑の嫡子となる。当初、信憑は信応(養父・信旧の3男)を養嗣子としていたものの、この年に死去したためである。同年10月1日、将軍徳川家斉に御目見する。文化12年(1815年)12月28日、従五位下山城守に叙任する。父・信憑の官位昇進にともない、世子の地位にありながら叙任しており、特別な待遇であったといえる。 |
| 津田頼房 | |
| はじめは宇陀松山藩士・千賀道的の養子となる。正保元年(1644年)、500石の知行を与えられる。寛文12年(1672年)千賀家を離籍し、織田家に復籍、津田姓を称し分家する。元禄3年(1690年)3月18日、病気療養のために滞在していた京都で死去。法正寺に埋葬された。 |