<神皇系氏族>天神系

OD05:織田信雄  織田親真 ― 織田敏定 ― 織田信秀 ― 織田信長 ― 織田信雄 ― 織田高長 OD06:織田高長

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織田高長 織田長頼

 父・信雄の改易後、はじめは長兄の秀雄、次いで細川忠興、さらに前田利常のもとに身を寄せた。前田家の部将として、大坂夏の陣に参加する。四兄・信良の死去により、信雄は高長を前田家から呼び戻し、甥・信昌の後見にあたらせた。一説によれば、細川家に身を寄せていたときは長岡主膳を称し、藪政一の娘と結婚し、龍王城主になっていたという。慶長16年(1611年)に細川家を去り、前田家に身を寄せたという。
 寛永6年(1629年)4月、従四位下侍従に叙任される。寛永7年(1630年)、信雄の死去に伴い、事実上の隠居料であった大和宇陀松山3万1200石を相続。これに対し、上野小幡藩主であった信昌の家臣団から異論が出されるが、幕府は高長の相続を認めた。寛永7年(1630年)12月、大御所・徳川秀忠の使者として上洛する。この人選は、織田家と徳川家の親密さを示すものである。なお、秀忠の息子・忠長の正室は兄・信良の娘であった。寛永9年(1632年)、信雄の菩提寺を建立し、信雄の法名の徳源院から徳源寺とした。万治2年(1659年)12月23日、隠居して次男の長頼に家督を譲る。以後、一岩と号した。延宝2年(1674年)8月18日、大和松山にて死去、享年83。松山・徳源寺に埋葬された。後に織田家の柏原転封にともなって、信雄から信武まで4代の遺骸は総見寺の寺域であった安土城跡の長谷川秀一邸跡に改葬されたものの、4代の宝塔は現存している。

 元和6年(1620年)、加賀国にて生まれる。慶安元年(1648年)12月晦日、従四位下に叙任する。後に侍従に任官する。万治2年(1659年)12月23日、父・高長の隠居によって家督を相続する。翌年9月3日、弟・長政に3000石を分け与える。これにより、宇陀松山藩の石高は2万8235石余となる。なお、長政は幕府の交代寄合に加えられる。長政の子の信明は、高家旗本になる。
  『徳川実紀』には、徳川家光の名家優遇の逸話として、無官であった長頼を信長の子孫にあたることから正月に単独で拝賀させたことを記している。また、寛文5年(1665年)4月17日、弟・信久とともに江戸城紅葉山における八講会の予参を務めている。こうしたことも国主に準じた待遇であったことを示している。
 寛文11年(1671年)、領内の春日村に新たな陣屋を建築した。「松山新陣屋」と称された。貞享5年(1688年)9月12日、松山城下に一族の織田長清,秀親らを招き、能を催した。元禄2年(1689年)2月22日、将軍・徳川綱吉に招かれて登城し、能を見物、自身も舞った。同年4月3日に江戸で死去、享年70。松山の徳源寺に葬られた。後に近江安土城跡に改葬される。 

織田信武 織田信休

 明暦元年(1655年)、第3代藩主・織田長頼の長男として江戸で生まれる。幼名は乱麻呂。寛文6年(1666年)7月10日、将軍・徳川家綱に初めて御目見し、寛文12年(1672年)12月28日には従四位下出雲守に叙任した。
 延宝5年(1677年)7月11日、尾張藩主・徳川光友の養女である智姫(広幡忠幸の娘)と結婚する。元禄2年(1689年)6月6日、父の死去により家督を相続する。信武が継いだ松山藩織田家は、石高では2万8,000石の陣屋外様大名に過ぎなかったが、織田信長の次男・信雄の直系にあたるということで、その当主には従四位下侍従の官位と国主大名格が与えられていた。元禄3年(1690年)5月11日、藩主として初めてのお国入りの許可を得る。元禄4年(1691年)6月25日、正室の智姫が死去したため、光友の養女である清姫(智姫の妹)と再婚した。
 元禄7年(1694年)10月30日、松山陣屋において突然自殺した。享年40。幕府は旗本・浅野長恒らを松山に派遣して調査し、この騒動の責任を織田家に問い、長男・信休を丹波柏原藩2万石に減転封とした。またこのときに、従四位下侍従の官位を与えられる格式と国主大名の格式も合わせて剥奪され、信休以降の当主は通常の従五位下諸大夫の小外様大名として扱われるようになった。
 信武の自殺は、公的には乱心となっている。実際は宇陀崩れというお家騒動のためであった。宇陀松山藩の家臣団は、初代・信雄から仕えた古参衆と第2代・高長から仕えた加賀衆の2派に分かれていた。第4代・信武の治世、加賀衆に含まれる中山正峯と古参衆が財政政策をめぐり対立を激化させた。その結果、元禄7年(1694年)9月下旬に信武は古参衆の田中安定を手討ちにした。さらに、病気を理由に登城を拒否した生駒則正に藩士を遣わし、一族もろとも討ち果たすに至った。この事件は世間に広く知れ渡り、翌月動揺した信武は自殺するに至ったようである。なお、中山は柏原転封後も織田家に出仕している。
 なお、『土芥寇讎記』には、当時評価の高い大名の一人と記されている。 

 延宝6年(1678年)8月17日、江戸において誕生する。元禄3年(1690年)2月15日、将軍・徳川綱吉に御目見する。元禄6年(1693年)12月23日、従五位下壱岐守に叙任する。元禄8年(1695年)2月5日、家督を相続する。ただし、前年父・信武がお家騒動「宇陀崩れ」で自殺したため、8,000石を減らした上での転封を命じられた。同年4月10日、丹波氷上郡,何鹿郡,天田郡内で2万石を与えられることになった。こうして織田家は、大和宇陀松山藩2万8,000石から丹波柏原藩2万石に転封になった。元禄11年(1698年)4月21日、藩主として初めてお国入りする許可を得る。
 信休は、柏原村の亀屋田助邸を仮御殿、井尻屋文七邸を仮公儀所として藩政を開始させた。正徳4年(1714年)5月27日にようやく柏原陣屋が完成し、落成式を行った。なお、転封となった信休は、従来の国主並の家格を返上した。官位もそれまでの当主は従四位下侍従まで昇進したのに対して、以降の当主は従五位下止まりであった(織田信憑を除く)。
 宝永元年(1704年)6月27日、大和川付替えの御手伝普請を命じられる。信休はたびたび現場の視察を行っている。正徳2年(1712年)2月2日、江戸の大名火消(方角火消)を命じられる。享保7年(1722年)11月29日、柏原において死去、享年45。徳源寺に葬られた。なお、明治維新後、同寺は廃寺となり、現在は14代・織田信民までが埋葬されている織田家廟所となっている。 

織田信憑 織田信守

 寛保元年(1741年)、高家旗本・織田信栄の次男として江戸において誕生する。宝暦8年(1758年)3月26日、柏原藩主・織田信旧の長男・元丸、次男・勇千代が早世したため、その養子となる。なお、同年養父・信旧に3男の信応が生まれた。そのため、寛政元年(1789年)12月、信憑は義弟信応を養嗣子に迎えた。宝暦10年(1760年)7月1日、将軍徳川家治に御目見する。
 天明3年(1783年)7月2日、家督を相続する。同年12月18日、従五位下出雲守に叙任する。天明4年4月25日、藩主として初めてお国入りする許可を得る。
 文化12年(1815年)12月23日、老年に至るまで参勤交代といった大名としての責務を怠らず勤めたとして、従五位下から従四位下に昇進する。それにともなって、柳の間詰から大広間詰となる。文政10年(1827年)10月10日に隠居し、長男・信守に家督を譲る。なお、養嗣子・信応は享和元年(1801年)に死去している。天保2年(1831年)12月10日江戸において死去、享年91。広徳寺に葬られる。 

 享和元年(1801年)6月14日、父・信憑の嫡子となる。当初、信憑は信応(養父・信旧の3男)を養嗣子としていたものの、この年に死去したためである。同年10月1日、将軍徳川家斉に御目見する。文化12年(1815年)12月28日、従五位下山城守に叙任する。父・信憑の官位昇進にともない、世子の地位にありながら叙任しており、特別な待遇であったといえる。
 その後、信守は信応の遺児・信古の廃嫡を狙い「秘命騒動」を起こす。先々代藩主・信旧は後継者に恵まれず、分家から信憑を養子に迎えたものの、その後に実子・信応を授かった。成長した信応は先代信憑の養嗣子になったものの、藩主に就任する前に病没した。つまり、信応の遺児・信古は柏原藩織田家の正統な後継者といえた。しかし、信守は信古を養嗣子に迎えず、実子を後継者にしようと企んだのである。信古は病気のため嫡子にはできないとして、退隠をさせようとしたようである。文政4年(1821年)3月以降、たびたび信古の出府を延期させており、この頃の出来事と考えられる。結果的には、文政6年(1823年)、家臣・九里政敬らの強い反発を受け、信古を婿養子に迎えた。
 文政10年(1827年)10月10日、家督を相続する。同12年(1829年)11月18日に隠居し、養子・信古に家督を譲る。信守の暴政に耐えられなくなった家臣団が幕府に藩主の交代を訴え、隠居させられたとも言われる。隠居後、その側室・保野による「保野騒動」が起こる。天保10年(1839年)8月16日、信守は家臣に側室保野を柏原に連れてくるように厳命し、一方で側室・保野に柏原に来ないように連絡をするなどして、家中を混乱させる原因を作ったことから、遠慮を命じられた。天保11年(1840年)5月10日江戸において死去、享年69。広徳寺に葬られる。

津田頼房
 はじめは宇陀松山藩士・千賀道的の養子となる。正保元年(1644年)、500石の知行を与えられる。寛文12年(1672年)千賀家を離籍し、織田家に復籍、津田姓を称し分家する。元禄3年(1690年)3月18日、病気療養のために滞在していた京都で死去。法正寺に埋葬された。