<神皇系氏族>天神系

OD06:織田高長  織田親真 ― 織田敏定 ― 織田信秀 ― 織田信長 ― 織田信雄 ― 織田高長 ― 織田長政 OD07:織田長政

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織田長政 織田信栄

 大和国宇陀松山藩主・織田高長3男として誕生した。生母は富田氏。
 承応3年(1654年)12月28日、従五位下・式部少輔に叙任する。後に対馬守に改める。万治3年(1660年)9月10日、兄・長頼から大和宇陀郡内10ヵ村で3000石を分与される。始め陣屋を西峠村に構え、後に福知村に移転した。そのため、「福知の殿様」と称されたようである。また、分家にあたり、宇陀松山藩士・中山甚五兵衛,田村可左衛門らを家来としてつけられる。同年11月28日、領地に赴く許可を得る。長政は参勤交代をする旗本、すなわち交代寄合であった。なお、子の信明の代に高家旗本になる。
 元禄3年(1690年)10月26日、死去。享年63。墓地は広徳寺にある。

 旗本・織田信清の長男として誕生した。初名は信廷,信尹。伯父の高家旗本・織田信明の養子となる。正徳3年(1713年)11月28日、7代将軍・徳川家継に御目見する。享保8年(1723年)7月23日、信明の隠居により家督を相続する。享保13年(1728年)12月15日、高家に就任し、従五位下・侍従,伊賀守に叙任する。後に従四位上・左少将にまで昇進する。宝暦2年(1752年)10月18日、高家肝煎に就任する。
 明和4年(1767年)8月21日、実子である上野小幡藩主・織田信邦の起こした明和事件に連座して蟄居・隠居を命じられた。山県大弐と交遊関係にあった小幡藩士・吉田玄蕃の処罰を幕府に届けず、内々に処理することに関し、小幡藩から相談を受け、追認したことを咎められたようである。それに伴って、織田家は高家旗本から普通の旗本に降格となる。
 明和6年(1769年)7月24日、死去。享年73。

織田信愛 織田信徳

 天保2年(1831年)2月15日、12代将軍・徳川家慶に御目見し、天保11年(1840年)3月29日に父の隠居により家督を相続する。安政3年(1856年)11月15日、高家に就任し従五位下・侍従兼中務大輔に叙任する。文久3年(1863年)6月18日、御用金徴収のために領地に派遣した家臣・秋元健二郎が農民に殺害された。
 慶応2年(1866年)9月16日、陸軍奉行並に就任し、慶応3年(1867年)1月25日には海軍奉行並に転じる。同年5月20日、横浜港にて勝海舟らとオランダから開陽丸を受け取る。
 慶応4年(1868年)1月28日、高家に再任するが、2月27日には高家職を退いて名誉職である留守居になった。しかし、3月8日にわずか10日余りで留守居を辞職した。
 慶応4年1月、明治新政府に恭順の意向を示し、閏4月には病気を理由に弟の時之助を上洛させた。しかし、実際には草風隊の隊長として新政府軍に抵抗する行動を取った。一時期的に草風隊を離れ、上野戦争に参加し、新政府軍と戦った。同年5月、上野戦争の敗北により逃走、竹中重固らと相談し、輪王寺宮と共に榎本武揚の指揮下にある長鯨丸に乗り込み奥羽に向かった。なお、上野戦争の敗北に際し、弟・房之助は負傷し自害している。同年6月、会津藩の居城若松城に入り、草風隊と合流、息子・信徳と共に輪王寺宮に拝謁する。同年8月、若松城を出て塩川を経て、天童藩織田家の許に行った。
 戊辰戦争終結後、そうした明治新政府に対する反抗的な行動から信愛,信徳父子は謹慎を命じられたが、明治2年(1869年)6月6日に明治新政府から謹慎を解かれた。明治政府は本家にあたる織田寿重丸に父子の扶助を命じた。なお、「旧高旧領取調帳」では、明治政府に対して反抗的な態度をとった信愛を隠居としたものと扱い、弟の時之助を幕末期の高家旗本織田家の当主としている。明治維新後は賢司を称した。明治4年、博物学の知識を買われて、北海道開拓使の農業掛に雇われた。明治5年(1872年)3月、博覧会の準備のため函館を巡回し、特産物の買い上げを通達している。明治8年(1875年)7月、開拓使職員を辞する。同年10月,11月の2度にわたり、勝海舟から資金援助を受ける。その後、帝室博物館に勤務する。明治19年(1886年)、酬恩義会の設立に伴い、勝海舟の斡旋により事務担当者となる。また、住居の世話もしてもらった。
 明治24年(1891年)10月24日、死去。享年78。下谷の広徳寺に葬られた。

 弘化5年(1848年)、高家旗本・織田信愛の長男として誕生した。『大武鑑』によれば、慶応3年(1867年)には部屋住みながらも表高家衆の一人として確認できることから、既に御目見を済ましていたと推測される。幕末期に父信愛の撮った信徳の写真も存在している。明治維新に際し、父・信愛と共に明治政府に敵対的な行動を取って謹慎を命じられたようである。明治2年(1869年)6月6日、新政府から父と共に謹慎を解かれる。謹慎の解除にあたって、新政府は本家の織田寿重丸に父子を引き取り、扶助するように命じている。
 父・信愛と同様に博物学に関心を示し、維新後は動物学を志し、西洋式の剥製技術を学んだという。高千穂宣麿に昆虫の標本作りの技術を教えたという。『動物生態写真集』などの著書もある。なお、高千穂は「信徳の妻、安も剥製術をよくし、特に魚類の剥製術は彼女の創始した方法が優れていた」と記す。
 明治5年(1872年)、澳国博覧会事務局に雇われて、町田久成の下で湯島における博覧会の準備などに携わる。明治10年(1877年)6月、江戸時代に本草学を学んだ田中房種らと三重県,和歌山県で植物の調査にあたる。明治27年(1894年)秋、次男・明の暮らす大阪へ家族全員で転居する。明治36年(1903年)の第5回内国勧業博覧会に際し、大阪での動物園設置を山岡千太郎らとはかり、『余興動物園集容動物目録及解説』を出版する。明治36年7月13日、大阪で死去し天王寺区の梅松院に埋葬されたという。