| G783:佐々木行定 | 源 雅信 ― 源 扶義 ― 佐々木行定 ― 山崎憲家 | G787:山崎憲家 |

| リンク | G788・{OE03}{F798} |
| 山崎憲家 | 山崎堅家 |
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山崎氏は宇多源氏の流れで、佐々木神主系の分流という。系図によれば、佐々木源四郎大夫行家の子・六郎憲家が佐々木を改めて山崎を称したことになっている。憲家は武芸に長じて「弓矢を取りてその名を落とさず」といわれ、源頼朝に仕えて近江国犬上郡山崎の地頭職に補せられ山崎を称した。しかし、もともと近江国犬上郡に山崎という地名はなく、滋賀県にも該当する在所はない。 |
堅家の頃から、独立勢力を目指す道を歩み始める。なお、『北摂軍記』にある山崎佐馬之介恒政とこの堅家は同一人物と考えられているが不詳である。この頃、山崎氏といえば山崎左馬之介、有馬氏といえば有馬出羽守と総称してしまう傾向が強く、人物の特定が難しい。1565年(永禄8年)、本庄築山城にあった山崎左馬之介恒政は、福島岡山城(城ヶ岡城)城主・赤松藤兵衛吉広を攻め、これを落城させたとされる。この時、有馬富士の麓上野ヶ原で幸田半左衛門など百余人との間で干戈が交えられたが、稀に見る大激戦であったという。 |