宇多源氏

G783:佐々木行定  源 雅信 ― 源 扶義 ― 佐々木行定 ― 山崎憲家 G787:山崎憲家


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山崎憲家 山崎堅家

 山崎氏は宇多源氏の流れで、佐々木神主系の分流という。系図によれば、佐々木源四郎大夫行家の子・六郎憲家が佐々木を改めて山崎を称したことになっている。憲家は武芸に長じて「弓矢を取りてその名を落とさず」といわれ、源頼朝に仕えて近江国犬上郡山崎の地頭職に補せられ山崎を称した。しかし、もともと近江国犬上郡に山崎という地名はなく、滋賀県にも該当する在所はない。
 『寛政重修諸家譜』には、「相模国山崎に住し、のち近江国に赴き、犬上郡山崎の城に住し代々佐々木氏に属した」とあり、相模国山崎は鎌倉郡内山内荘山崎郷に該当すると思われる。おそらく、源平合戦において源氏に属して関東に没落を余儀なくされ、佐々木一族の一人として、源頼朝の旗揚げに参陣し、その功によって相模国山崎に所領を得たのではないか。さらに、佐々木氏発祥の地である近江国犬上郡に地頭職を得て移住、そのまま山崎を地名とし居城も山崎城と称したものと思われる。 

 堅家の頃から、独立勢力を目指す道を歩み始める。なお、『北摂軍記』にある山崎佐馬之介恒政とこの堅家は同一人物と考えられているが不詳である。この頃、山崎氏といえば山崎左馬之介、有馬氏といえば有馬出羽守と総称してしまう傾向が強く、人物の特定が難しい。1565年(永禄8年)、本庄築山城にあった山崎左馬之介恒政は、福島岡山城(城ヶ岡城)城主・赤松藤兵衛吉広を攻め、これを落城させたとされる。この時、有馬富士の麓上野ヶ原で幸田半左衛門など百余人との間で干戈が交えられたが、稀に見る大激戦であったという。
 1570年(元亀元年)には道場塩田の北山に立岩城を築城したとされる。こうして山崎堅家は三田周辺の相当部分を従え、郡主の有馬国秀に匹敵する勢力へと成長した。その時突如として有馬郡に侵入してきたのが、当時全国統一の覇業の途上にあった織田信長の斬りこみ隊長・荒木村重であった。しかし、堅家は伊丹氏や山口氏と違って信長に刃向かうようなことはしなかったため、荒木村重の軍勢に蹂躙されずにすみ、その後は信長に臣従している。
 本能寺の変の後、堅家は秀吉に仕え、1582年(天正10年)、秀吉から三田藩二万三千石の藩主たるを認められた。家老の車瀬政右衛門が三田古城を修復したことから、当時、三田城は車瀬城と呼ばれている。その後、秀吉とともに小牧・長久手の戦いや小田原征伐にも従軍したが、1591年(天正19年)、堅家は44歳で没している。