| OE01:大枝諸上 | 土師身臣 ― 大枝諸上 ― 宮城光元 | OE03:宮城光元 | ● |

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| 宮城堅甫 | 宮城豊盛 |
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宮城氏は『寛政重修諸家譜』によれば、「大江兵部大丞千里が男維明が後裔某、陸奥国宮城に住せしより宮城を名乗る」とあり、大江氏の後裔とされている。そして、宮城四郎某のとき源頼朝に仕え、子孫代々鎌倉将軍家に仕えた。のち足利尊氏に属して以来、累代近江国に住し足利将軍家に仕えた。系図が失われているため、山城守某までその世系は詳らかでないという。 |
堅甫には嫡男・正重,次男・文利がいたが、娘婿の豊盛が有名である。豊盛も秀吉に仕えて、播州三木城の攻防戦で手柄を立て、小田原攻めや朝鮮出兵にも出陣した。文禄3年(1594年)、豊後日田・玖珠二万石の蔵入地代官として赴任、筑後川上流にあたる三隈川を臨む日隈山(亀翁山)に日隈城を築城している。慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が没したのち、五大老,五奉行によって朝鮮撤退が決議された。豊盛は五大老筆頭の徳川家康の命を受け、徳永寿昌,家康家臣の山本重成らとともに朝鮮に渡海して在鮮諸将へ撤兵を指示する任にあたった。 |
| 宮城頼久 | 宮城豊嗣 |
| 頼久は豊盛と同様に秀吉に仕え、天正15年(1587年)に行われた北野大茶会では前田玄以とともに奉行を務めている。宮城氏の場合、堅甫といい、豊盛,頼久といい、武将というよりは文官としてのイメージが強い。真偽はともかくとして、学者の家として名をなした大江氏の流れを感じさせるところではある。 |
元和6年(1620年)、豊盛が亡くなると十二郎が家督となり、主膳正豊嗣を名乗った。寛永4年(1627年)に加増を受け、 浜坂一万三千石を領する大名になった。寛永16年(1639年)、豊嗣は祖父・豊盛が再建した銀閣寺の修理を手がけ、方丈,玄関,庫裡,門を整備し、 銀閣,東求堂の修復を行った。豊嗣は江戸にあって所領の支配は家臣を代官として赴任させ、領内の検地や村落の自立を図り、 また清富村の町立てや岸田川の付け替え工事を行った。とくに、奉楞巌寺古文書の保護をした功績は大きく評価されている。 代官を勤めた奥村・西川氏などの家臣は近江出身の者が多かったようで、宮城氏と近江との関係がうかがわれる。 |