<神皇系氏族>天孫系

HJ01:土師身臣  土師身臣 ― 大枝諸上 OE01:大枝諸上

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大枝諸上 大江音人

 宝亀3年(772年)、造東大寺史生に任ぜられる。延暦8年(789年)に征東将軍・紀古佐美が蝦夷のアテルイらに大敗した巣伏の戦いでは別将として出陣するが、戦死を逃れ残兵を率いて帰還した。
 延暦9年12月30日(791年2月11日)に桓武天皇の生母である高野新笠の一周忌に伴い、同じ系統であるとして土師宿禰から大枝朝臣に改姓した。なおこれより先に、高野新笠の母・土師真妹に正一位が追贈された際、同族の菅原真仲と土師菅麻呂が同時に大枝朝臣が授けられているが、諸上への改氏姓はこれに遅れている。
 本貫は河内国にあったが、延暦15年(796年)には右京(平安京)に貫付されている。

 紀伝道について菅原清公に師事、天長10年(833年)文章生となる。『六国史』に記述はないが、承和9年(842年)に発生した承和の変に連座して一時尾張国に配流されたことが『公卿補任』に見られる。後に音人の子孫である大江匡衡が尾張守になった時に、先祖の音人がこの地に流されていたことを記していることから、配流の件は事実であったとみられている。承和11年(844年)赦されて帰洛後、承和12年(845年)対策に及第、少内記を経て、承和15年(848年)従五位下に叙爵され、大内記に昇進する。
 嘉祥3年(850年)、皇太子・惟仁親王の東宮学士に転任。文徳朝では東宮学士を務める傍ら、民部少輔,大内記,左少弁を兼ね、仁寿4年(854年)には従五位上に昇叙されている。
 天安2年(858年)、惟仁親王の即位(清和天皇)に伴い正五位下に叙せられ、まもなく右中弁に任ぜられる。清和朝では弁官を務めながら順調に昇進し、貞観6年(864年)には参議に任ぜられ公卿に列した。
 同年10月に「大枝」から「大江」へと改姓しているが、「枝(分家)が大きいと、本体である木の幹(本家)が折れる(下克上)事にも繋がり不吉である」との理由であった。しかし「大枝」姓は桓武天皇より与えられたものであることから、全面的に変更するわけにもいかず、読み方はそのままで漢字だけ変えた。「大きな川(江)の様に末永く家が栄えるように」との意味があるという。
 のちに、議政官として左大弁,勘解由長官,左兵衛督,検非違使別当などを兼ねた。またこの間の、貞観16年(874年)には従三位に昇叙されている。また、清和天皇に対して『史記』の進講も行っている。
 元慶元年(877年)11月3日薨去。享年67。
 一説によると、音人は阿保親王の長子であるが、音人が生まれる前年に親王が薬子の変の連座で大宰府に左遷されたため、大枝本主の養子になった、あるいは、母(中臣氏)は阿保親王の侍女で、阿保親王の子を身籠もった後に、本主の妻となり音人を産んだといわれ、在原行平や在原業平らと兄弟だともされる。
 性格は静かで落ち着いており、飾り気がなく口数が少なかった。眉が広く目は大きく大柄で立派な顔立ちをしており、風格もあった。また、声も大きくて美しかった。
 政体・故事に通暁し、政務において疑義が生じる度に朝廷から諮問を受けたという。また学者としても知られ、通儒と称された。菅原是善らと『貞観格式』の撰上を担当、その上表文と式序を作成し、また『日本文徳天皇実録』の編纂にも参画した。『群籍要覧』『弘帝範』の編纂も行い、家集に『江音人集』があったとされるが、いずれも散逸して現在には伝わっていない。

大江朝綱 大江清通

 26歳で文章生に及第した頃には既に漢詩人として評価が高く、延喜8年(908年)の渤海使来朝の際に作った漢詩が『本朝文粋』に採録されている。また、『江談抄』(巻4・74)には彼の漢詩に感銘した讃岐守・平中興が自分の娘を娶らせたと記されている。
 延喜21年(921年)には最難関の方略試に及第している。諸官を歴任後、延長6年(928年)には大内記に任ぜられ、承平3年(933年)には左少弁に任ぜられて弁官に転じ、更に翌年には文章博士を兼ねた。この時期に藤原忠平に重用され、その上表文の多くを作成したとされている。天暦7年(953年)に参議に任ぜられた。
 書家としての技量は小野道風と並ぶとされる。また、『新国史』の編纂員として別当にも補任された。

 永延3年(989年)従五位下に叙爵し、翌永祚2年(990年)中宮亮に任ぜられ、中宮・藤原定子に仕える。
 長徳2年(996年)に発生した長徳の変後も引き続き中宮亮を務めるが、長保2年(1000年)2月に左大臣・藤原道長の娘である彰子が中宮となると、今度はその中宮大進に転じる。なおこの任官の少し前の同年正月に放火のため清通の中御門の邸宅が焼亡している。
 長保4年(1002年)、備前守として地方官の任務について朝廷に申請を行っていることや、長保末から寛弘初頭(1003~05年頃)にかけて古記録類に登場しないことから、この頃地方官として下向していたと見られる。その後、藤原道長の側近となったらしく、寛弘4年(1007年)以降、道長が方違えの際に清通の邸宅に宿泊したり、寛弘8年(1011年)頃より清通が中宮亮として再び中宮・藤原彰子に仕えるなどしている。また、室・豊子とその娘(少輔の乳母)の両方が、道長の外孫である後一条天皇の乳母を務めた。

大江公景 大江千里

 久寿2年12月29日(1156年1月23日)に内舎人となり、以後、後白河院・高倉院に仕える。建久2年(1191年)に行われた若宮社歌合には「従五位下大和守」として登場する。その後、建久9年(1198年)に後鳥羽院が院政を開始した際には北面武士の1人に加えられた。和歌にも優れており、『千載和歌集』に2首載せられている他、和歌所の歌合にも度々参加している。また、藤原定家とも親交があり、『明月記』には公景がしばしば定家の元を訪問して後鳥羽院の動向について話したことが記されている。
 没年については、『勅撰作者部類』は「元久元年(1204年)に至る」とし、『明月記』には同2年2月27日条に彼が「飲水脚病」にかかっていたことが記され、その2年後の承元元年(1207年)4月28日条までその名前が見える。

 大学寮で学び、清和朝にて菅原是善らと『貞観格式』の撰集に参画している。醍醐朝にて中務少丞,兵部少丞,兵部大丞などを務める。この他、家集『句題和歌』の詞書から伊予権守や式部権大輔を歴任していたことが知られる。
 宇多天皇の頃の歌合に参加、寛平9年(897年)宇多天皇の勅命により家集『句題和歌』(大江千里集)を撰集・献上している。『古今和歌集』の10首を始めとして、以降の勅撰和歌集に25首が入集している。歌は儒家風で『白氏文集』の詩句を和歌によって表現しようとしたところに特徴がある。一方で大学で学んだ儒者であるが、漢詩作品はほとんど残っていない。