HJ01:土師身臣 | 土師身臣 ― 大枝諸上 | OE01:大枝諸上 |
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大枝諸上 | 大江音人 |
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宝亀3年(772年)、造東大寺史生に任ぜられる。延暦8年(789年)に征東将軍・紀古佐美が蝦夷のアテルイらに大敗した巣伏の戦いでは別将として出陣するが、戦死を逃れ残兵を率いて帰還した。 |
紀伝道について菅原清公に師事、天長10年(833年)文章生となる。『六国史』に記述はないが、承和9年(842年)に発生した承和の変に連座して一時尾張国に配流されたことが『公卿補任』に見られる。後に音人の子孫である大江匡衡が尾張守になった時に、先祖の音人がこの地に流されていたことを記していることから、配流の件は事実であったとみられている。承和11年(844年)赦されて帰洛後、承和12年(845年)対策に及第、少内記を経て、承和15年(848年)従五位下に叙爵され、大内記に昇進する。 |
大江朝綱 | 大江清通 |
26歳で文章生に及第した頃には既に漢詩人として評価が高く、延喜8年(908年)の渤海使来朝の際に作った漢詩が『本朝文粋』に採録されている。また、『江談抄』(巻4・74)には彼の漢詩に感銘した讃岐守・平中興が自分の娘を娶らせたと記されている。 |
永延3年(989年)従五位下に叙爵し、翌永祚2年(990年)中宮亮に任ぜられ、中宮・藤原定子に仕える。 |
大江公景 | 大江千里 |
久寿2年12月29日(1156年1月23日)に内舎人となり、以後、後白河院・高倉院に仕える。建久2年(1191年)に行われた若宮社歌合には「従五位下大和守」として登場する。その後、建久9年(1198年)に後鳥羽院が院政を開始した際には北面武士の1人に加えられた。和歌にも優れており、『千載和歌集』に2首載せられている他、和歌所の歌合にも度々参加している。また、藤原定家とも親交があり、『明月記』には公景がしばしば定家の元を訪問して後鳥羽院の動向について話したことが記されている。 |
大学寮で学び、清和朝にて菅原是善らと『貞観格式』の撰集に参画している。醍醐朝にて中務少丞,兵部少丞,兵部大丞などを務める。この他、家集『句題和歌』の詞書から伊予権守や式部権大輔を歴任していたことが知られる。 |