清和源氏

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佐竹義信 佐竹義憲

 佐竹北家初代当主。文明10年(1478年)に兄(異説あり)の義武が山入義知に攻められて戦死したため、その養子となって家督を継ぎ久米城主となった。長兄の義舜をよく助け、永正14年(1517年)に義舜が死去した後は甥に当たる義篤を弟の政義と共に後見人として補佐した。
 天文2年(1533年)8月12日に死去。享年58。長男の義住が家督を継いだ。なお、佐竹氏の居城である太田城の北方にある久米城を居城にしたことから「北殿」と称され、子孫は佐竹北家として宗家の補佐に当たった。 

 佐竹義久の後を継いで、奥州方面の軍権を任された。また、佐竹義重の3男・岩城貞隆が岩城氏を継いで、それを補佐していた岡本顕逸が病死すると、貞隆の補佐役として岩城氏の政務を取り仕切り、検地などを行ったという。慶長7年(1602年)、佐竹義宣が出羽に減封されると、これに従って移ったが、まもなく死去した。梅津憲忠と親交があり、憲忠に名の一字を与えている。 
佐竹義直 佐竹義隣

 他の兄(義宣,蘆名義勝,岩城貞隆,多賀谷宣家)と姉(高倉永慶室)はすべて義重の正室・宝寿院の子で、申若丸のみ異腹の子である。母・細谷氏の懐妊中、病の床にあった義重は、子が誕生するまで自分は生きられないと考え、家中の揉め事の一因にならないように生まれた子を殺害せよと家臣の町田備中に命じた。思い悩んだ備中は主君である佐竹義宣に報告したところ、その子を育てるように命じられたという。
 慶長19年(1614年)、北家の佐竹義廉が、大坂冬の陣への出陣途中に遠江国掛川にて急死したため、3歳の申若丸がその養子となって北家を嗣いだ。ただし養子入りした時期については諸説ある。元和7年7月7日(1621年8月24日)、江戸にて元服し彦次郎義直と名乗る。同年11月14日(1621年12月26日)、将軍・徳川秀忠に御目見し、義宣の嫡子として公認される。
 義宣が義直を北家から引き上げたのは、この年で義宣は52歳になり、いまだ子が無く健康面から今後も実子は望めず、無嗣改易が脅威として迫っていたためである。近親で異姓の他家の養子になっていないのが義直だけであったことも要因と考えられている。しかし嫡子としての義直は、義宣には頼りなく見えることがあったらしく、寛永3年3月21日(1626年4月17日)、廃嫡された。
 寛永5年8月3日(1628年8月31日)、義直は梅津政景を通じて義宣から、秋田を離れ高野山へ上ることの許可を得る。寛永15年2月(1638年3月)、落髪染衣して正式に出家し、芳揚軒阿證と号す。後に仁和寺の一品親王・覚深に師事し、正保3年2月(1646年3月)に尊寿院号と社地を賜わる。慶安3年(1650年)に佐竹家から200両の合力金を得、翌4年に尊寿院跡地へ堂舎を再興して住職となった。明暦2年閏4月8日(1656年5月31日)に死去、享年45。

 権大納言・高倉永慶の次男として誕生。佐竹北家は、先代当主・義直が宗家の世嗣となったため、元和7年(1621年)に一度絶えたが、義隣の母が佐竹義宣の妹であったため、寛永5年(1628年)に北家を相続して再興させた。明暦2年(1656年)には、断絶した蘆名氏に代わり角館所預(城代)となり、3,600石を領した。故郷を懐かしんで、京に似た地形の角館の山河に「小倉山」,「加茂川」などと命名した。天和元年(1681年)、隠居して家督を嫡男・義明に譲った。 
佐竹義邦 佐竹政義

 享保3年(1718年)、佐竹義本の子として生まれる。従兄弟の北家佐竹義拠の婿養子に迎えられる。寛延3年(1750年)、養父の隠居により家督を相続し、角館城代となる。宝暦5年(1755年)、藩主・義明に従い江戸に出府する。宝暦7年(1757年)、藩内に銀札推進派と反対派の家中騒動が発生する。藩主の叔父である義邦と義智は、反対派の家老・石塚義陳,岡本元貴(石塚義陳の弟。岡本家の養子),平元正直に事態の収拾を依頼され城に出府するも、銀札推進派は藩主・義明に、義邦らに陰謀があると讒言したため、5月に謹慎を命じられた。翌6月に讒言であることが発覚して謹慎を解かれ、推進派は騒動を企んだとして死罪等の厳罰に処された。反対派は褒賞を受け、義邦も500石の加増を受けた。
 明和6年(1769年)、隠居して家督を嫡男の義躬に譲る。天明7年(1787年)死去、享年70。谷素外に師事した談林派の俳人としても知られ、雅号を百童,歴翁,午時庵,遷喬,里麗と名乗った。また書画の腕にも秀でており、家中でも文芸が盛んとなった。

 佐竹東家初代当主。文明16年(1484年)、佐竹氏の第14代当主・佐竹義治の5男として生まれる。はじめ田口氏の養子となるが、やがて出家して僧侶となり、周悦と号した。しかし、兄の命令で還俗し政義と名乗る。佐竹氏の居城である太田城の東に居城を構えたことから、「東殿」といわれた。そして同じく北に居城を構えた実兄の佐竹義信(北殿)と共に兄の佐竹義舜、甥の佐竹義篤を補佐した。
 実兄の義信の後を追うように天文3年(1534年)に死去。享年51。跡を嫡男の義堅が継ぎ、東殿家の子孫は佐竹本家の補佐役を代々務めることになった。
なお、政義の死で佐竹家中には政務を統御できる人物が一時的に不在となり、佐竹義篤とその実弟・佐竹義元の家督争いが起こることになった。 

佐竹義久 佐竹義準

 佐竹東家の当主として、本家の当主・佐竹義重に従って各地を転戦し、武功を挙げる。外交においても、天正7年(1579年)には相模国後北条氏に対抗するための甲斐国の武田氏との同盟(甲佐同盟)締結に携わっている。一族の重鎮として重用され、佐竹氏の陸奥方面の軍権を任されたという。
 のち豊臣秀吉と懇意になり、秀吉直轄地の代官を務めた。天正19年(1591年)1月2日、豊臣姓を下賜された。また文禄・慶長の役では、文禄2年(1593年)6月から約1ヶ月の間、義久が佐竹勢1,440人を率いて出陣している。これらの功績により、秀吉から直接、常陸国の鹿島郡・真壁郡に6万石を与えられ、さらに豊臣氏直轄領1,000石の代官も務め、独立大名の処遇となった。
 佐竹家の動向が不安定だった関ヶ原の戦いの後、徳川家康と交渉し、佐竹本家の本領安堵を取り付けたと言われるが、直後に死亡。病死とも、家康により佐竹本家当主を義久とされることを嫌う勢力に暗殺されて死亡したとも伝わる。

 先代当主の佐竹義寿が1884年(明治17年)に没したのちは、義寿の娘の佐竹克子、ついで義寿の義母にあたる佐竹銀子(先々代当主・佐竹義祚の継室)が女戸主となっていた。1900年(明治33年)、佐竹四家のうち北家・西家・南家は華族に列し、各当主は男爵が授けられているが、東家は女戸主であったため華族とはならなかった。
 義準は銀子の養子となって1903年(明治36年)12月に家督を相続、佐竹東家の第23代当主となった。1906年(明治39年)9月、義寿の戊辰戦争での活躍が功績とされて佐竹東家も華族に列し、義準に男爵が授けられた。1907年(明治40年)9月、統監秘書官となり、以後、朝鮮総督府取調局事務官,朝鮮総督府印刷所長などを務めた。
 1915年(大正4年)8月、貴族院議員(男爵議員)に選ばれ、1924年(大正13年)に没するまでその地位にあった。