| G414:佐竹義俊 | 源 義光 ― 佐竹義業 ― 佐竹貞義 ― 佐竹義俊 ― 佐竹義信/政義 | G416:佐竹義信/政義 | ● |


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| 佐竹義信 | 佐竹義憲 |
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佐竹北家初代当主。文明10年(1478年)に兄(異説あり)の義武が山入義知に攻められて戦死したため、その養子となって家督を継ぎ久米城主となった。長兄の義舜をよく助け、永正14年(1517年)に義舜が死去した後は甥に当たる義篤を弟の政義と共に後見人として補佐した。 |
佐竹義久の後を継いで、奥州方面の軍権を任された。また、佐竹義重の3男・岩城貞隆が岩城氏を継いで、それを補佐していた岡本顕逸が病死すると、貞隆の補佐役として岩城氏の政務を取り仕切り、検地などを行ったという。慶長7年(1602年)、佐竹義宣が出羽に減封されると、これに従って移ったが、まもなく死去した。梅津憲忠と親交があり、憲忠に名の一字を与えている。 |
| 佐竹義直 | 佐竹義隣 |
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他の兄(義宣,蘆名義勝,岩城貞隆,多賀谷宣家)と姉(高倉永慶室)はすべて義重の正室・宝寿院の子で、申若丸のみ異腹の子である。母・細谷氏の懐妊中、病の床にあった義重は、子が誕生するまで自分は生きられないと考え、家中の揉め事の一因にならないように生まれた子を殺害せよと家臣の町田備中に命じた。思い悩んだ備中は主君である佐竹義宣に報告したところ、その子を育てるように命じられたという。 |
権大納言・高倉永慶の次男として誕生。佐竹北家は、先代当主・義直が宗家の世嗣となったため、元和7年(1621年)に一度絶えたが、義隣の母が佐竹義宣の妹であったため、寛永5年(1628年)に北家を相続して再興させた。明暦2年(1656年)には、断絶した蘆名氏に代わり角館所預(城代)となり、3,600石を領した。故郷を懐かしんで、京に似た地形の角館の山河に「小倉山」,「加茂川」などと命名した。天和元年(1681年)、隠居して家督を嫡男・義明に譲った。 |
| 佐竹義邦 | 佐竹政義 |
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享保3年(1718年)、佐竹義本の子として生まれる。従兄弟の北家佐竹義拠の婿養子に迎えられる。寛延3年(1750年)、養父の隠居により家督を相続し、角館城代となる。宝暦5年(1755年)、藩主・義明に従い江戸に出府する。宝暦7年(1757年)、藩内に銀札推進派と反対派の家中騒動が発生する。藩主の叔父である義邦と義智は、反対派の家老・石塚義陳,岡本元貴(石塚義陳の弟。岡本家の養子),平元正直に事態の収拾を依頼され城に出府するも、銀札推進派は藩主・義明に、義邦らに陰謀があると讒言したため、5月に謹慎を命じられた。翌6月に讒言であることが発覚して謹慎を解かれ、推進派は騒動を企んだとして死罪等の厳罰に処された。反対派は褒賞を受け、義邦も500石の加増を受けた。 |
佐竹東家初代当主。文明16年(1484年)、佐竹氏の第14代当主・佐竹義治の5男として生まれる。はじめ田口氏の養子となるが、やがて出家して僧侶となり、周悦と号した。しかし、兄の命令で還俗し政義と名乗る。佐竹氏の居城である太田城の東に居城を構えたことから、「東殿」といわれた。そして同じく北に居城を構えた実兄の佐竹義信(北殿)と共に兄の佐竹義舜、甥の佐竹義篤を補佐した。 |
| 佐竹義久 | 佐竹義準 |
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佐竹東家の当主として、本家の当主・佐竹義重に従って各地を転戦し、武功を挙げる。外交においても、天正7年(1579年)には相模国後北条氏に対抗するための甲斐国の武田氏との同盟(甲佐同盟)締結に携わっている。一族の重鎮として重用され、佐竹氏の陸奥方面の軍権を任されたという。 |
先代当主の佐竹義寿が1884年(明治17年)に没したのちは、義寿の娘の佐竹克子、ついで義寿の義母にあたる佐竹銀子(先々代当主・佐竹義祚の継室)が女戸主となっていた。1900年(明治33年)、佐竹四家のうち北家・西家・南家は華族に列し、各当主は男爵が授けられているが、東家は女戸主であったため華族とはならなかった。 |