清和源氏

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佐竹義俊 佐竹義治

 永享9年(1437年)に父・義人から家督を譲られていたが、実権は父が握っていた。しかも弟の実定を寵愛した父に疎まれ、享徳元年(1452年)に実定と組んだ江戸通房と山入祐義によって太田城から追放されたため、外叔父にあたる大山因幡入道常金を頼り、大山城に移る。
 弟と父の死後、応仁元年(1467年)に甥の義定を追放し、義俊は嫡男・義治と共に太田城に返り咲いた。文明9年(1477年)11月24日に死去。
 当時の佐竹氏は混乱していたため、義俊本人の詳細な事績には不詳な点が多いが、佐竹氏本家の混乱が庶家の佐竹山入家の跳梁や新たに勃興した常陸江戸氏の台頭を許す結果になる。 

 当時の佐竹家は、一族の山入氏との対立や、関東管領上杉氏,鎌倉公方(古河公方)の相次ぐ家中への干渉などにより弱体化しており、享徳元年(1452年)に父の義俊は一時居城を追われて、大山氏を頼るなど衰退の色を深めていた。この時、義治は那珂郡斧沼の要害(那珂西城)に居を移していた。
 応仁元年(1467年)11月に太田城に父と共に帰還し、文明9年(1477年)に父が没したため家督を継いだ。義治が当主となった後も一族の内紛は続き、まもなく古河公方と通じた佐竹入家当主・佐竹義知は久米城の佐竹義武(久米義武)を攻撃してくる。一時、義武が戦死するなど苦戦したが、義治は岩城氏など周辺国の援助も受け、ついに義知を討った。山入家の脅威が去ったものの、今度は佐竹氏の弱体化を知った岩城氏の岩城常隆の侵略を招いた。車城や竜子山城など佐竹方の城は次々に失陥し、一時は常陸太田城も脅かされたが、岩城氏に車城など三城を割譲し、子の義舜の妻に常隆の妹を迎えることで和議を結んだ。延徳元年(1489年)には山入家を継いでいた佐竹義藤の要請により伊達氏,蘆名氏,白河結城氏が佐竹氏領に侵攻した。義治は家老の小野崎通綱の働きによりこれを退けた。
 延徳2年(1490年)死去、享年48。天徳寺に葬られた。

佐竹義舜 佐竹義篤
 佐竹氏中興の祖とされる。父・義治の跡を受けて当主となる。延徳2年(1490年)、山入義藤・山入氏義父子に裏切られて居城の常陸太田城を奪われ、家臣の大山氏を頼り孫根・金砂山などを転々としたが、永正元年(1504年)に岩城常隆の支援を背景にしてこれを奪回し、永正3年(1506年)までに反逆した山入一族を滅ぼした。その後は白河結城氏と争って領土を拡大する一方、領内の支配体制を確立して佐竹氏の戦国大名化に務めた。 

 兄で庶子の今宮永義が、伯父の今宮周義(義舜の兄)の跡を継いだため、義篤が嫡男となった。永正14年(1517年)、父・義舜の死去に伴い、幼年ながら佐竹氏の家督を継ぎ、叔父の北家の義信が後見人となった。
 しかし、若き義篤は佐竹家中を統率するだけの器量に欠け、弟の佐竹義元とは不和が生じ、ついには義元は享禄2年(1529年)に反乱を起こし小貫俊通の居城・部垂城を攻撃、陥落させた。また、岩城成隆,江戸忠通が佐竹氏の領域に侵略すると、天文4年(1535年)にこれに呼応する形で、佐竹一族の高久義貞も反旗を翻した。これに対し義篤は、伊達稙宗の斡旋で江戸忠通らと和睦し、孤立して進退窮まった義貞を降伏させて、反乱を終結させた。
 天文7年(1538年)には佐竹一族の宇留野長昌が反乱を起こした。天文8年(1539年)には、那須政資・高資親子の抗争に介入。義弟の小田政治と共に政資を支援した。天文9年(1540年)には前年に和議が成立していたにもかかわらず突然、部垂城を奇襲して部垂義元を自害に追い込み、まだ子供の竹寿丸をも追い殺して実弟の血を根絶やしにして義元の乱を終息させた(部垂の乱)。
 部垂の乱の背景には、父・羲舜が佐竹氏の宗家を争ってきた久慈川以東の山入氏を滅ぼした後、義舜・羲篤父子が久慈川以西の支配の再建に乗り出したため、これに不満を抱いた諸氏が義篤の弟である義元を担ぎ出して挙兵した、とする見方がある。
 対外的には白河結城氏や那須氏と戦って勢力を拡大し、国内においては江戸氏を従属させるなど常陸北部を統一して、佐竹氏の戦国大名化に成功した。天文14年(1545年)、死去。 

佐竹義昭 佐竹義重

 享禄4年(1531年)8月23日、第16代当主・佐竹義篤の次男として生まれる。異母長兄の義友が庶子のために、後継者に定められた。天文14年(1545年)、父の死により家督を相続して第17代当主となる。この頃の佐竹氏は内紛を収拾して、常陸北部を支配する戦国大名に成長していた。このため、常陸統一に向けて勢力拡大に励んだ。
 小田政治と共同して江戸忠通と戦い、勝利した。弘治3年(1557年)、宇都宮氏で内紛が勃発すると、当主の宇都宮広綱の宇都宮城への復帰に協力し、のち娘を嫁がせている。永禄元年(1558年)には岩城重隆が常陸に侵攻してくるが、これを小里で破り、婚姻関係を理由に有利な和睦を結んだ。永禄3年(1560年)には結城晴朝を攻めて勝利し、さらに白河晴綱の寺山城を攻めて勝利した。永禄5年(1562年)には上杉輝虎(上杉謙信)と同盟を結んで小山城を攻めた。この年に長男の義重に家督を譲って隠居し、常陸府中城に移ったが、なおも実権は握り続けた。
 永禄6年(1563年)には那須資胤と戦って勝利し、永禄7年(1564年)には北条氏康や結城晴朝と手を結んだ小田氏治の攻撃を受けるが、義昭は上杉謙信,宇都宮広綱と手を結んで逆に小田領に侵攻して小田城を奪取し、氏治を土浦城にまで追いつめた(小田城の戦い)。また、継室の実家である大掾氏に乗り込んで、事実上同氏を傘下に収めた。
 永禄8年(1565年)11月3日、常陸統一を目前にして突如として急死した。享年35。このため、佐竹氏の常陸統一は後一歩のところでならなかった。


 永禄5年(1562年)、父・義昭が隠居したため、家督を継いで第18代当主となった。永禄7年(1564年)には越後国の上杉謙信と共に小田城の戦いで常陸小田城主・小田氏治を敗走させているが、翌年の父の死により佐竹氏の常陸統一は遠のき、反勢力の反攻が始まることとなる。
 父・義昭の代から連携していた上杉謙信とさらに連携を強め、永禄9年(1566年)、小田氏治を攻めて小田領の大半を奪取し、永禄12年(1569年)には手這坂の戦いにて小田氏治に大勝して小田城を奪取した。
 一方で関東においては、相模国の北条氏政が勢力を強め、佐竹氏ら関東諸氏族はその後北条氏と対立する。天正2年(1573年)には北条方に寝返った小田氏治と再び戦って、その所領の大半を併合するなど、活発に勢力を拡大していった。しかし急速な勢力拡大は周辺の諸大名に危機感を抱かせ、北条氏政や蘆名盛氏らより二正面作戦を強いられ、窮地に追い込まれる。これを打開するために、結城氏や宇都宮氏と婚姻関係を軸にして同盟を結んで氏政と対抗したり、畿内の羽柴秀吉と懇意になるなど同盟を重視して味方を増やし、一時は伊達氏よりも南側(会津・仙道・海道)の諸大名は事実上佐竹氏の傘下に入り、室町時代中期以来分裂を続けたこの地域が1つの勢力圏を形成することになった。周辺の諸大名は義重が「奥州一統を為した」と高く評価した。
 しかし、天正13年(1585年)に下野国に進出した北条軍の猛反攻にあって長沼城を奪われ、不利な状況下においての和睦をせざるを得なくなった(沼尻の合戦)。この頃になると、奥州の伊達政宗とも対立を深めていくことになる。政宗は先の御代田合戦で佐竹氏に敗れた田村清顕の娘婿であった。天正13年(1585年)には伊達氏と対立する二本松氏救援の名目で蘆名氏との連合軍を結成して奥州に出陣し、人取橋で会戦する(人取橋の戦い)。武力・兵力共に優位に立つ義重は戦いを有利に進めるが、あと一歩のところで留守中の常陸国で江戸氏らが不穏な動きを示したため撤退した。天正14年(1586年)、二本松城が開城して二本松氏が事実上滅亡したのを機に、伊達氏と佐竹氏・蘆名氏との間で和議が結ばれた。
 天正15年(1587年)には、次男の義広を蘆名氏の養嗣子として入れることで、政宗と対抗しようとしたが、政宗はこれに反発。天正16年(1588年)、奥州の諸大名と連合して再び政宗と戦う。しかし、兵力で圧倒的優位にありながら、ここでも連合軍が機能せず、岩城常隆の調停で和睦することを余儀なくされた(郡山合戦)。
 天正17年(1589年)になると、蘆名氏,白河結城氏,石川氏といった陸奥南部の諸大名は伊達氏に寝返る。これにより佐竹氏は南から北条氏直、北から伊達政宗という2大勢力に挟まれ、滅亡の危機に立たされた。同年、長男の義宣に家督を譲って隠居したが、なおも実権は握ったままであった。
 天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、義重は義宣とともに小田原に参陣し、石田三成の忍城攻めに加わった。その後、奥州仕置にも従ったことから、義重は秀吉から常陸国54万石の支配権を認められ、一気に状況を挽回することに成功した。秀吉の後押しもあり、反対勢力を謀殺・追放するなどして常陸国内を統一した。その後は義宣に実権を譲渡し、太田城にて悠々自適の隠居生活を送り、「北城様」と呼ばれた。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、子の義宣はかねてから懇意にあった石田三成の西軍に付こうとしたが、時流を見ていた義重は徳川家康の東軍に与するように述べ、父子は対立した。この時、義重をはじめ、義宣の弟の蘆名義広,佐竹氏家臣筆頭である佐竹義久など義宣以外の多くの佐竹家中の者が東軍を支持していた。戦後の慶長7年(1602年)5月、義宣のどちらにも付くともいえない曖昧な態度を理由に、佐竹氏は出羽国久保田計20万石(実高40万石)に減封されたが、義重が前から誼を通じていた家康・秀忠親子に嘆願したため、改易は免れた。
 久保田移転後は相次ぐ反佐竹一揆に対応するため、義宣とは別に六郷城に居を構え、六郷町の町割りを行い、所領南部(仙北・平鹿・雄勝の3郡)の見張りを行っていたが、慶長17年(1612年)4月19日、狩猟中に落馬して死去した。享年66。菩提寺は闐信寺。末子の義直は義重の死後に生まれている。 

佐竹義里 今宮義透

 天文24年/弘治元年(1555年)に作成されたとされる宇留野本『佐竹系図』によれば、亥年生まれで仮名は三郎、初名は義隣とあり、父の没年及び兄弟の生年から、記述の亥年は永正12年(1515年)とみられている。
 天文2年(1533年)8月12日に北殿家の佐竹義信、翌年には東殿家の佐竹政義が没し、更に天文8年(1539年)7月7日には北殿家の佐竹義住が部垂の乱鎮圧中に戦死した。こうした事態に対して、佐竹宗家を支えるために創設されたのが、義里の南殿家(佐竹南家)であったと考えられている。 父の没後は兄の佐竹義篤を助け、兄の死後は東殿家の佐竹義堅や北殿家の佐竹義廉らと協力して若年の甥である佐竹義昭を補佐した。義里は佐竹家の居城・太田城の南に居城を構えたため、「南殿」と称され、その一族は江戸時代を通じて佐竹本家の補佐を務めた。
 義昭の没後はその息子である佐竹義重を補佐する。永禄10年(1567年)には義重の命令を受けて那須氏の内紛に介入し、佐竹軍の総大将として出陣する。義里は義重の弟・佐竹義尚(那須資綱)を擁立しようとする大関高増を支援して那須資胤と戦ったが、烏山近郊の大川井山で大敗を喫した。後に那須氏の内紛が終結すると、義尚の那須氏入りは消滅し、また義里自身が敗戦の責を問われ隠居したため、義尚を自らの養子に迎えて後継者とした。なお、義里に娘がいたとする系図もあり、義尚が婿養子であった可能性もある。ただし、義里の実像は不明な点が多く、天文12年(1543年)に没したとも伝わり、その場合は義里の没後に絶家となった佐竹南家を義尚が再興したということになる。ただし、現存する古文書の中に佐竹義昭から義里に対する命令文書が残されており、実際に没したのは義昭が家督を継承した天文14年(1545年)から永禄年間にかけての時期と推定されている。 

 元禄4年(1691年)に当時、藩主・佐竹義処の命で久保田城下の自宅に謹慎中であった義教の7子として出生する。正徳元年(1711年)に初出仕するも、正徳4年(1714年)に兄に連座して一時退役する。享保元年(1716年)に赦されて再勤し、享保2年(1717年)に兄の家督を相続する。同3年(1718年)、藩政改革の必要性を述べた「贈執政之書」を藩に提出し、享保6年(1721年)に家老に就任し、同年200石を賜る。
 従来、城下にあった会所を廃止して久保田城中に御用所を設け、出納担当の本方奉行を廃止して財務と出納を勘定奉行に一本化する。また、村境や道を調査して図籍簿を編集する。これらの行政改革により、享保10年(1725年)に兄の代で降格になった家格を復されて引渡座となり、一門の席に列する。
 元文2年(1737年)に幕府より寛永通宝銅銭の鋳造の許可を得るのに成功して、200石加増される。翌年(1738年)より寛永通宝鋳造を行う。しかし、幕命により延享2年(1745年)に鋳造禁止となり、財政再建は頓挫する。
 寛延元年(1748年)に檜山給人支配の待遇を与えられたが、同年10月に家老免職となる。宝暦3年9月6日(1753年10月2日)に久保田城下で死去した。葬所は禅宗闐信寺。