| G413:佐竹貞義 | 源 経基 ― 源 頼信 ― 源 義光 ― 佐竹義業 ― 佐竹貞義 ― 佐竹義俊 | G414:佐竹義俊 |


| リンク | G415・G416 |
| 佐竹義俊 | 佐竹義治 |
|---|---|
|
永享9年(1437年)に父・義人から家督を譲られていたが、実権は父が握っていた。しかも弟の実定を寵愛した父に疎まれ、享徳元年(1452年)に実定と組んだ江戸通房と山入祐義によって太田城から追放されたため、外叔父にあたる大山因幡入道常金を頼り、大山城に移る。 |
当時の佐竹家は、一族の山入氏との対立や、関東管領上杉氏,鎌倉公方(古河公方)の相次ぐ家中への干渉などにより弱体化しており、享徳元年(1452年)に父の義俊は一時居城を追われて、大山氏を頼るなど衰退の色を深めていた。この時、義治は那珂郡斧沼の要害(那珂西城)に居を移していた。 |
| 佐竹義舜 | 佐竹義篤 |
| 佐竹氏中興の祖とされる。父・義治の跡を受けて当主となる。延徳2年(1490年)、山入義藤・山入氏義父子に裏切られて居城の常陸太田城を奪われ、家臣の大山氏を頼り孫根・金砂山などを転々としたが、永正元年(1504年)に岩城常隆の支援を背景にしてこれを奪回し、永正3年(1506年)までに反逆した山入一族を滅ぼした。その後は白河結城氏と争って領土を拡大する一方、領内の支配体制を確立して佐竹氏の戦国大名化に務めた。 |
兄で庶子の今宮永義が、伯父の今宮周義(義舜の兄)の跡を継いだため、義篤が嫡男となった。永正14年(1517年)、父・義舜の死去に伴い、幼年ながら佐竹氏の家督を継ぎ、叔父の北家の義信が後見人となった。 |
| 佐竹義昭 | 佐竹義重 |
|
享禄4年(1531年)8月23日、第16代当主・佐竹義篤の次男として生まれる。異母長兄の義友が庶子のために、後継者に定められた。天文14年(1545年)、父の死により家督を相続して第17代当主となる。この頃の佐竹氏は内紛を収拾して、常陸北部を支配する戦国大名に成長していた。このため、常陸統一に向けて勢力拡大に励んだ。 |
永禄5年(1562年)、父・義昭が隠居したため、家督を継いで第18代当主となった。永禄7年(1564年)には越後国の上杉謙信と共に小田城の戦いで常陸小田城主・小田氏治を敗走させているが、翌年の父の死により佐竹氏の常陸統一は遠のき、反勢力の反攻が始まることとなる。 |
| 佐竹義里 | 今宮義透 |
|
天文24年/弘治元年(1555年)に作成されたとされる宇留野本『佐竹系図』によれば、亥年生まれで仮名は三郎、初名は義隣とあり、父の没年及び兄弟の生年から、記述の亥年は永正12年(1515年)とみられている。 |
元禄4年(1691年)に当時、藩主・佐竹義処の命で久保田城下の自宅に謹慎中であった義教の7子として出生する。正徳元年(1711年)に初出仕するも、正徳4年(1714年)に兄に連座して一時退役する。享保元年(1716年)に赦されて再勤し、享保2年(1717年)に兄の家督を相続する。同3年(1718年)、藩政改革の必要性を述べた「贈執政之書」を藩に提出し、享保6年(1721年)に家老に就任し、同年200石を賜る。 |