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| 佐竹義宣 | 佐竹義直 |
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元亀元年(1570年)7月16日、佐竹義重の長男として常陸国太田城に生まれた。元亀3年(1572年)、父・義重は那須氏と和睦し、那須氏当主・那須資胤の娘を当時3歳の義宣の妻に迎えること等が条件となっていた。天正14年(1586年)から天正18年(1590年)の間、父・義重の隠居により家督を相続した。 |
慶長17年(1612年)、佐竹義重の5男として父の死後に生まれた。佐竹4家の1つ、北家の佐竹義廉の養子となる。元和7年(1621年)7月、長兄で出羽国久保田藩主の佐竹義宣の養子になる。なお、ほかの兄で正室の子だった蘆名義広,岩城貞隆,多賀谷宣家(岩城宣隆)は他家に養子に出ていた。同年11月14日、将軍徳川秀忠に御目見する。 |
| 佐竹義隆 | 佐竹義寘 |
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1620年(元和6年)、実父貞隆の死去により家督を相続する。遺領である信濃中村1万石を支配した。1622年(元和8年)、出羽国由利郡内で1万石の加増を受けた。1623年(元和9年)11月中村の領地を収公、由利郡に替地を与えられた。それにともなって、出羽由利郡亀田村に陣屋を移転した。1624年(寛永元年)12月29日従五位下修理大夫に叙任する。 |
生母は側室の多羅尾氏。庶子のために長男ながら嫡子になれず、本家を継ぐことはできなかった。一時期、佐竹家中の蘆名氏の旧臣から蘆名家を再興するための人物として候補に挙げられていた。慶安2年(1649年)6月20日、江戸幕府3代将軍・徳川家光に拝謁する。承応3年(1654年)12月28日、従五位下式部少輔に叙任される。 |
| 佐竹義堅 | 佐竹義道 |
| 元禄5年(1692年)、久保田新田藩初代藩主・佐竹義都の長男として誕生。元禄15年(1702年)10月15日、5代将軍・徳川綱吉に御目見する。享保5年(1720年)11月27日、父・義都の隠居により、家督を相続する。同年12月18日、従五位下豊前守に叙任される。享保6年(1721年)、駿府加番を命じられる。享保17年(1732年)5月9日、本家である出羽国久保田藩主・佐竹義峯の養子となり、1万石は久保田藩に還付する。同年5月11日、修理大夫と改称する。同年12月16日、従四位下に昇進する。寛保2年(1742年)2月4日、家督を相続することなく、養父・義峯に先立ち死去する。その後、久保田藩主には実子・義真が就いた。 |
佐竹義本の長男として誕生した。元禄14年(1701年)生まれとも、元禄16年(1703年)7月15日生まれとも言われている。享保2年(1717年)11月18日、岩崎藩主・佐竹義長の養子となる。義長の実子・義峯は本家の久保田藩主を継いでおり、岩崎藩主家(佐竹壱岐守家)の後継者を欠いていたためである。同年11月28日、8代将軍・徳川吉宗に御目見する。享保3年(1718年)9月6日、義長の隠居により家督を相続した。同年12月18日、従五位下・壱岐守に叙任する。享保17年(1732年)、駿府加番を命じられる。 |
| 佐竹義諶 | 佐竹義峯 |
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陸奥相馬中村藩主・相馬益胤の4男。佐竹家側の記録によれば、始め義諶は中村藩士・岡田智胤の養子となり、岡田泰胤を称したという。ただし、相馬家側の記録によれば、義諶(幸之助)は中村藩士・熊川長基の養子となり、熊川長顕を称していたという。佐竹義諶を益胤の4男、岡田泰胤を益胤の5男、すなわち別人としている。 |
元禄15年(1702年)10月15日、5代将軍・徳川綱吉に御目見する。正徳5年(1715年)9月12日、先代藩主・佐竹義格の末期養子として家督を相続した。義峯は義格の従兄に当たり、義格より年長であった。同年9月28日、7代将軍・徳川家継に御目見する。同年12月18日、従四位下侍従・右京大夫に叙任する。享保2年(1717年)4月15日、初めてお国入りする許可を得る。 |
| 佐竹義敦 | 佐竹義堯 |
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義敦は絵描きとしては天才的であった。当時、絵描きとしては最大の正統派と呼ばれた狩野派から絵を学んだ。狩野派の面々も、最初は大名のちょっとした趣味だろうとしか思っていなかったが、義敦の熱意は趣味ではなく、本気であった。そして藩士の小田野直武からも教えを受けて、日本画に西洋画を組み合わせた一代的な画法を作り出した。ちなみに直武は、西洋画に対する趣味を持っており、平賀源内からもその作品を見て、「秋田の片田舎に素晴らしい名手がいるものだ」と賞賛されたほどの人物である。 |
陸奥国相馬中村藩主・相馬益胤の3男。天保10年(1839年)元服し、相馬宗胤と名乗る。嘉永2年(1849年)2月26日、秋田新田藩(岩崎藩)主・佐竹義純の養子となる。それにともなって佐竹義核と改名した。同年10月26日養父・義純の隠居により、秋田新田藩佐竹家の家督を相続した。安政四年(1857年)7月1日、秋田藩主・佐竹義睦が病死し、同年7月20日、義核は末期養子として秋田藩佐竹家の家督を相続した。それに伴い、佐竹義就と改名。秋田新田藩佐竹家は弟・佐竹義諶(相馬益胤の4男)が相続した。同年12月16日、従四位下侍従・右京大夫に叙任した。文久2年(1862年)佐竹義堯と改名した。 |