清和源氏

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佐竹義宣 佐竹義直

 元亀元年(1570年)7月16日、佐竹義重の長男として常陸国太田城に生まれた。元亀3年(1572年)、父・義重は那須氏と和睦し、那須氏当主・那須資胤の娘を当時3歳の義宣の妻に迎えること等が条件となっていた。天正14年(1586年)から天正18年(1590年)の間、父・義重の隠居により家督を相続した。
 佐竹氏は北方の伊達氏と対立する傍ら、豊臣秀吉と音信を通じ、石田三成及び上杉景勝と親交を結んでいた。義宣は天正17年(1589年)11月28日、秀吉から小田原征伐への出陣命令を受けたが、義宣は南郷において政宗と対峙している最中であったため、直ちに命令に従うことはできなかった。義宣は秀吉自らが京を出立したという知らせを受けて宇都宮国綱に対応を相談した上で、天正18年(1590年)5月に宇都宮国綱らを含めた1万余の軍勢を率いて小田原へ向かった。義宣は北条方の城を落としつつ小田原へ進軍し天正18年(1590年)5月27日、秀吉に謁見して臣下の礼をとった。義宣は天正18年(1590年)6月に三成の指揮下、忍城を攻めた。義宣は忍城水攻めの際の堤防構築に従事した。
 小田原の役後、義宣はかねて政宗と争奪戦を繰り広げていた南奥羽について秀吉から知行として認められ、奥州仕置の後、本領である常陸国及び下野国の一部、計21万貫余(35万石余)を知行として安堵する旨の朱印状を与えられた。ただ、佐竹氏と与力家来分の比率は50.2対49.8となっており、領主権力としては貧弱であったため、義宣は大掾氏配下の国人たち(いわゆる南方三十三館、主として鹿行両郡の塚原氏・行方氏・卜部氏・麻生氏・鹿島氏など万石未満の土豪)を討伐するなど領主権力の強化を進めることとなる。
 義宣は朱印状による所領安堵の直後から常陸国全域に支配を及ぼすことを企図し、まずは居城を太田城から水戸城へ移すこととした。天正18年(1590年)12月20日、水戸城を攻め落とし、同月22日には、府中に拠る大掾清幹を攻めて大掾氏を滅亡させた。天正19年(1591年)には鹿島郡及び行方郡に散在していた「南方三十三館」の国人衆で、まだ生き残っていた勢力を謀殺して、常陸国全域の支配権確立に成功した。
 天正19年(1591年)9月16日、秀吉が唐入りのため各国大名に出兵を命じ、義宣も5,000人の出兵を命じられた。義宣も、文禄元年(1592年)1月10日、水戸を出発し、同年4月21日、名護屋城に到着したが、義宣が朝鮮に渡ることはなかった。
 慶長2年(1597年)10月、佐竹氏の与力大名であり義宣の従兄弟でもある宇都宮国綱が改易されると、佐竹氏も何らかの処分を受ける可能性があったが、従前から親交があった石田三成の取りなしによって処分を免れた。
 秀吉没後の慶長4年(1599年)閏3月3日、前田利家が死去したことを契機として、加藤清正,福島正則,加藤嘉明,浅野幸長,黒田長政,細川忠興,池田輝政が三成の屋敷を襲撃した。この知らせを受けた義宣は三成を女輿に乗せて脱出させ、宇喜多秀家の屋敷に逃れさせた。この一連の動きについて、義宣の茶の湯の師匠でもあった古田重然(古田織部)は徳川家康に釈明するよう勧めたが、これに対し義宣は「三成は公命に背いたこともないのに、加藤清正らは三成を討とうとした。自分はかつて三成に恩を受けたから、三成の危急を見て命にかけて救っただけである」と応えた。家康は忠興からこの話を聞き、「義宣身命にかけて旧恩に報いたのは、義と言うべきである。異存はない」と答えたという。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに向けては、義宣はあいまいな態度をとり、上杉景勝との間で密約も交わしたようである。戦後、父・義重はただちに家康に戦勝を祝賀する使者を送り、さらに上洛して家康に不戦を謝罪したが、義宣は動かず、義重の説得により慶長7年(1602年)4月に上洛し、ようやく家康に謝罪した。その後の同年5月、義宣は家康から出羽国秋田郡への国替えの命令を受けた。54万石から20万石への減転封であった(正式な石高が決定されたのは2代藩主・佐竹義隆のとき)。佐竹氏の処遇決定が他の大名家と比較して大幅に遅れた理由については諸説あり、この時期になって初めて上杉氏との密約が発覚したとする説や、島津氏に対する処分を先行させることで島津氏の反乱を抑える狙いがあったとする説がある。また佐竹氏が減転封された理由としては、無傷の大兵力を温存していた佐竹氏を江戸から遠ざける狙いがあったとする説がある。
 義宣は慶長7年(1602年)9月17日、秋田の土崎湊城に入城し、角館城,横手城及び大館城等を拠点として内政を行い、仙北地方で起こった一揆を平定して領内の安定を図った。後に慶長8年(1603年)5月から築城が始まった久保田城を本城とすることになった。
 義宣は家柄や旧例にとらわれず、渋江政光,梅津憲忠,梅津政景及び須田盛秀といった旧家臣及び関東・奥州の旧大名の遺臣達を能力本位で登用し、積極的に開墾を進めて家中の建て直しに尽くした。これにより、江戸中期の久保田藩の実高は45万石にも上った。義宣は秋田への減転封を機に一門及び譜代の家臣の知行を減少させ、その勢力を減殺し当主の権力を強化して新たな政策の実施と人材登用を可能にした。
 慶長19年(1614年)の大坂の陣では、義宣は徳川方として参陣し、玉造口に陣取り、上杉景勝とともに木村重成及び後藤基次が率いる軍勢と当たった。この際、渋江政光が戦死した(今福の戦い)。幕府における佐竹軍の評価は高く、大阪の役(冬の陣)において幕府から感状を受けたのはわずか12名であったが、うち5名を佐竹家中の者が占めていた。
 義宣と正室,後室,側室との間に生まれた男子は夭逝し、養子に取った弟・蘆名義広の長男・盛泰も元和2年7月17日(1616年8月29日)に22歳で父に先立ち没した。そこで元和7年7月7日(1621年8月24日)、佐竹北家当主となっていた申若丸(佐竹義直)を宗家へ引き上げて嫡子とした。しかし、寛永3年3月21日(1626年4月17日)に廃嫡。江戸城で行われた猿楽の見物中に義直が居眠りをし、義宣が政宗から注意されるという失態を演じたためであるという。義直廃嫡1ヶ月後の4月25日、大御所・秀忠から亀田藩主の岩城吉隆(義宣の弟・岩城貞隆の子)を新たな継嗣にする許可を得た。寛永10年(1633年)1月25日、義宣は江戸神田屋敷で死去した。享年64。墓所は秋田県秋田市泉三嶽根の天徳寺である。京都市の大徳寺玉林院にも義宣の墓所がある。

 慶長17年(1612年)、佐竹義重の5男として父の死後に生まれた。佐竹4家の1つ、北家の佐竹義廉の養子となる。元和7年(1621年)7月、長兄で出羽国久保田藩主の佐竹義宣の養子になる。なお、ほかの兄で正室の子だった蘆名義広,岩城貞隆,多賀谷宣家(岩城宣隆)は他家に養子に出ていた。同年11月14日、将軍徳川秀忠に御目見する。
 寛永3年(1626年)3月21日、廃嫡された。『佐竹家譜』によれば、江戸城における猿楽の見物中に居眠りをしてしまい、養父・義宣の怒りをかったためという。3月23日、江戸を出発し、4月2日、秋田に到着した。ほどなく城下の一乗院に入り、出家した。寛永5年(1628年)8月3日、秋田を離れ、高野山に上る許可を得る。その後、京都・仁和寺の塔中尊寿院を再興し住職となる。『源姓佐竹氏総系図』によれば、明暦2年(1656年)閏4月8日に死去、47歳。正室、子女ともにいない。
 なお、佐竹東家の当主・佐竹義直と混同しないように、後世、便宜的に「義継」と名付けたという説もある。幕府の公的な系譜集『寛政重修諸家譜』にも「義直」とある。 

佐竹義隆 佐竹義寘

 1620年(元和6年)、実父貞隆の死去により家督を相続する。遺領である信濃中村1万石を支配した。1622年(元和8年)、出羽国由利郡内で1万石の加増を受けた。1623年(元和9年)11月中村の領地を収公、由利郡に替地を与えられた。それにともなって、出羽由利郡亀田村に陣屋を移転した。1624年(寛永元年)12月29日従五位下修理大夫に叙任する。
 1626年(寛永3年)4月2日、伯父に当たる久保田藩主・佐竹義宣の養子になる。養父・義宣の養嗣子・義直の廃嫡のためである。以後、佐竹義隆と名乗る。同年4月27日、徳川秀忠・家光父子に御目見した。同年8月29日従四位下侍従に昇進する。
 1630年(寛永7年)11月、幕府からなかなか隠居を許可されない養父・義宣は、義隆に対して部屋住料5万石を与えようとするものの、従来のままで構わないとして辞退する。1633年(寛永10年)2月26日・義宣の死去により家督を相続する。同年5月8日藩主として初めて帰国の許可を得る。  1666年(寛文6年)12月28日、少将に昇進する。1671年(寛文11年)12月5日、久保田城において死去、享年63。 

 生母は側室の多羅尾氏。庶子のために長男ながら嫡子になれず、本家を継ぐことはできなかった。一時期、佐竹家中の蘆名氏の旧臣から蘆名家を再興するための人物として候補に挙げられていた。慶安2年(1649年)6月20日、江戸幕府3代将軍・徳川家光に拝謁する。承応3年(1654年)12月28日、従五位下式部少輔に叙任される。
 寛文5年(1665年)9月21日、死去した。享年33。跡に長男の義都は、久保田新田藩を立藩した。
子孫は義寘の官位から式部少輔家と称された。 

佐竹義堅 佐竹義道
 元禄5年(1692年)、久保田新田藩初代藩主・佐竹義都の長男として誕生。元禄15年(1702年)10月15日、5代将軍・徳川綱吉に御目見する。享保5年(1720年)11月27日、父・義都の隠居により、家督を相続する。同年12月18日、従五位下豊前守に叙任される。享保6年(1721年)、駿府加番を命じられる。享保17年(1732年)5月9日、本家である出羽国久保田藩主・佐竹義峯の養子となり、1万石は久保田藩に還付する。同年5月11日、修理大夫と改称する。同年12月16日、従四位下に昇進する。寛保2年(1742年)2月4日、家督を相続することなく、養父・義峯に先立ち死去する。その後、久保田藩主には実子・義真が就いた。 

 佐竹義本の長男として誕生した。元禄14年(1701年)生まれとも、元禄16年(1703年)7月15日生まれとも言われている。享保2年(1717年)11月18日、岩崎藩主・佐竹義長の養子となる。義長の実子・義峯は本家の久保田藩主を継いでおり、岩崎藩主家(佐竹壱岐守家)の後継者を欠いていたためである。同年11月28日、8代将軍・徳川吉宗に御目見する。享保3年(1718年)9月6日、義長の隠居により家督を相続した。同年12月18日、従五位下・壱岐守に叙任する。享保17年(1732年)、駿府加番を命じられる。
 宝暦7年(1757年)、久保田藩(秋田藩・佐竹藩)では発生した銀札と言われる銀の兌換券を原因とする秋田騒動が起きている。銀札の兌換を担当した商家の多くは潰れ、銀札推進派の藩士らが切腹などの処分を受けた。秋田騒動は、歌舞伎・小説・講談・映画・落語の題材として何度も扱われている。
 また、義道は江戸で阿波藩の江戸家老賀島出雲と親密になり、4男の義居を養子(蜂須賀重喜)に出し、徳島蜂須賀家25万石を継がせている。宝暦13年(1763年)5月14日、3男の義忠に岩崎藩主家の家督を譲って隠居し、翌年閏12月7日に死去した。享年64。墓所は東京都板橋区小豆沢の総泉寺。 

佐竹義諶 佐竹義峯

 陸奥相馬中村藩主・相馬益胤の4男。佐竹家側の記録によれば、始め義諶は中村藩士・岡田智胤の養子となり、岡田泰胤を称したという。ただし、相馬家側の記録によれば、義諶(幸之助)は中村藩士・熊川長基の養子となり、熊川長顕を称していたという。佐竹義諶を益胤の4男、岡田泰胤を益胤の5男、すなわち別人としている。
 安政4年(1857年)7月20日、実兄の秋田新田藩主・佐竹義核(後の佐竹義堯)の本家相続に伴い、秋田新田藩佐竹家への養子入りを要請される。同年7月26日中村を出発、8月3日江戸に到着。同年9月16日義核の養子として家督を相続した。
 慶応4年(1868年)3月、出羽国河辺郡椿台に陣屋を構える。それまで秋田新田藩佐竹家は特定の領地を持っておらず、江戸定府だった。戊辰戦争では新政府軍として矢島口で庄内藩と戦って武功を挙げた。明治2年(1869年)5月25日、養嗣子・義理に家督を譲って隠居した。明治3年(1870年)4月16日死去、享年34。墓所は東京都板橋区小豆沢三丁目の総泉寺。

 元禄15年(1702年)10月15日、5代将軍・徳川綱吉に御目見する。正徳5年(1715年)9月12日、先代藩主・佐竹義格の末期養子として家督を相続した。義峯は義格の従兄に当たり、義格より年長であった。同年9月28日、7代将軍・徳川家継に御目見する。同年12月18日、従四位下侍従・右京大夫に叙任する。享保2年(1717年)4月15日、初めてお国入りする許可を得る。
 義格と違って暗愚な人物で、倹約令を廃止して贅の限りを尽くし、藩財政が危うくなると家臣の知行を借り上げるなどして凌ぐ有様であった。寛延元年(1748年)には凶作が起こって、藩財政は破綻寸前となる。また、後継者に恵まれず、義峯本人は一族の佐竹義明を養子に望むものの、家老らの反対により、最終的に同じく一族の佐竹義堅を養子に迎えることになった。
 寛延2年(1749年)8月10日、60歳で死去し、跡を養嗣子・義堅の長男・義真が継いだ。墓所は秋田県秋田市泉三嶽根の天徳寺。
 義峯は江戸で、傘の代わりにもなるほどの大きさの秋田のフキの自慢をしたところ、他の大名から信じてもらえなかった。領民は山野を捜索して2本の巨大フキを発見した。それを江戸に運び、藩邸で他の大名に見せ、名誉を回復したという。この後、巨大な秋田蕗の存在が国中に知られることになったといわれている。

佐竹義敦 佐竹義堯

 義敦は絵描きとしては天才的であった。当時、絵描きとしては最大の正統派と呼ばれた狩野派から絵を学んだ。狩野派の面々も、最初は大名のちょっとした趣味だろうとしか思っていなかったが、義敦の熱意は趣味ではなく、本気であった。そして藩士の小田野直武からも教えを受けて、日本画に西洋画を組み合わせた一代的な画法を作り出した。ちなみに直武は、西洋画に対する趣味を持っており、平賀源内からもその作品を見て、「秋田の片田舎に素晴らしい名手がいるものだ」と賞賛されたほどの人物である。
 義敦の命令で、源内のもとで絵の修行に励んだ直武は、源内の友であった杉田玄白の解体新書における付図の作画を行なった。そして秋田に帰国後、義敦と直武は「画法綱領」,「画図理解」などの西洋画論を著わした。これは、日本最初の西洋画論をまとめた著作であった。 

 陸奥国相馬中村藩主・相馬益胤の3男。天保10年(1839年)元服し、相馬宗胤と名乗る。嘉永2年(1849年)2月26日、秋田新田藩(岩崎藩)主・佐竹義純の養子となる。それにともなって佐竹義核と改名した。同年10月26日養父・義純の隠居により、秋田新田藩佐竹家の家督を相続した。安政四年(1857年)7月1日、秋田藩主・佐竹義睦が病死し、同年7月20日、義核は末期養子として秋田藩佐竹家の家督を相続した。それに伴い、佐竹義就と改名。秋田新田藩佐竹家は弟・佐竹義諶(相馬益胤の4男)が相続した。同年12月16日、従四位下侍従・右京大夫に叙任した。文久2年(1862年)佐竹義堯と改名した。
 安政6年(1859年)5月、秋田に入部。入部間もない7月1日、男鹿半島沖合にロシア汽船が現れ、領民を驚かした。義堯はロシア船員の薪の求めを許してやった。当時の秋田藩は財政事情が悪化しており、就封早々人事刷新を始めとする藩治の改革を行う。自ら範を垂れ質素倹約に励み、文武を奨励した。文久2年(1862年)4月に江戸に上る。文久3年(1863年)1月京都に上洛。
 義堯の帰藩後、京都では攘夷論が盛んになり、朝廷から義堯に京都警備の要請が来る。一方幕府からも江戸城への登城を求められる。朝廷と幕府の要請の板挟みとなった義堯だが幕府の要請を断り、朝廷からの再びの要請があったため名代として戸村十太夫(義效)を文久3年(1863年)8月に京都に派遣した。警衛の命は12月に解除された。翌元治元年(1864年)に京都警備のための財源として二万両の新札発行と三万五千石の用米調達に取りかかった。
 慶応2年(1866年)6月より9月まで義堯は京都警衛の当番だったが、持病が回復せず名代として小野岡右衛門を警衛に当たらせた。8月に江戸を経由して上洛するために出発したが、江戸に着くとまもなく病状が悪化、そのまま江戸にとどまる。
 翌慶応3年(1867年)、前年の凶作に苦しむ領民の救恤のため、帰藩を願い出たが許可されず、その間に持病が再発する。江戸逗留中に王政復古の大号令がなされ、慶応4年(1868年)の1月に帰藩、重臣を集めた会議で上洛を決定。名代として再び小野岡右衛門を上洛させる。同年戊辰戦争が勃発すると会津討伐の仙台藩の応援として2月に奥羽鎮撫総督として大阪より海路仙台へ向かった。戊辰戦争は翌明治2年(1869年)終結、版籍奉還がなされると義堯は藩知事に任命される。明治4年(1871年)の廃藩置県後は東京に転居した。
 明治5年8月2日隠居し、養嗣子・佐竹義脩に家督を譲った。明治14年8月16日、養子・義脩を隠居させて、再び家督を相続した。明治17年7月7日、侯爵となる。同年10月23日病気のために死去した。佐竹侯爵家は次男・佐竹義生が継承している。