| H472:平 胤宗 | 平 高望 ― 平 忠常 ― 平 胤宗 ― 多賀谷光基 | H474:多賀谷光基 | ● |

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| 多賀谷家政 | 多賀谷氏家 |
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| 『吾妻鏡』には、暦仁元年(1238年)に鎌倉幕府4代将軍・藤原頼経が上洛するに際し、家政も随員の一人として供奉したことが記されている。 |
永享12年(1440年)に起きた結城合戦において、結城城が幕府軍によって落城した折、氏家は結城氏朝の末子・七郎(後の結城成朝)をかき懐いて脱出、常陸国の佐竹氏を頼り、七郎を養育する。 |
| 多賀谷家稙 | 多賀谷政広 |
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『多賀谷家譜』によれば、朝経の跡を家稙が継いだ(「下総守基泰」とは同一人物と考えられる)。家稙は、康正元年(1455年)下妻に入り、飯沼氏一族の堀戸氏を滅ぼし、大宝沼の南にある関城に入ったという。その後、下妻城を築きこれを本城とした。下妻城は別名「浮島城」とも呼ばれ、沼のなかの島と島をつなぐ要害堅固な水城であった。以後、家稙は下妻城を拠点に、結城氏に属しながら独自の版図を作り上げていく。 |
多賀谷氏が結城氏に帰属するとき、その人質として差し出され、そのまま結城氏の家臣となった。結城晴朝の時代には、主に宇都宮氏や佐竹氏,後北条氏などに対する外交の使者として活躍し、弘治2年(1556年)に下都賀郡内に知行を受け、天正14年(1586年)には常陸の小栗城の在番も務めた。 |
| 多賀谷重経 | 多賀谷三経 |
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天正4年(1576年)、父の死により家督を継ぐ。上杉謙信や佐竹義重と結んで小田氏・岡見氏を攻撃、牛久地方への進出を図るなど、結城氏からの独立を図ってたびたび行動した。小田原征伐においては後北条氏方の天神城を攻略している。また、重経は1000挺もの鉄砲隊を保有しており、関東では佐竹氏の鉄砲隊と並ぶ規模である。 |
幼名は虎千代。初名は光経であったが、後に烏帽子親となった石田三成から1字を与えられて改名した。 |
| 多賀谷峯経 | |
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元禄8年(1695年)、家格宿老の戸村処風の3男として出生。はじめ、公命で多賀谷家の養子になった次兄・格重の名跡を相続して戸村家分家の当主になったが、後に同じく公命により多賀谷家の家督(格重の跡目)を相続する。この時に、第5代藩主・佐竹義峯より1字を拝領されて峯経と名乗る。 |