<桓武平氏>高望王系

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多賀谷家政 多賀谷氏家
 『吾妻鏡』には、暦仁元年(1238年)に鎌倉幕府4代将軍・藤原頼経が上洛するに際し、家政も随員の一人として供奉したことが記されている。 

 永享12年(1440年)に起きた結城合戦において、結城城が幕府軍によって落城した折、氏家は結城氏朝の末子・七郎(後の結城成朝)をかき懐いて脱出、常陸国の佐竹氏を頼り、七郎を養育する。
 宝徳2年(1450年)、足利成氏が古河公方に就任したのを機会に結城に帰り主家を再興し、旧領を回復。宝徳3年(1451年)、足利成氏の命により関東管領・上杉憲忠の鎌倉西御門館を急襲、氏家・朝経兄弟は憲忠の首を討ち取った(享徳の乱)。この功により、下妻三十三郷を与えられ、さらに結城家の家老の身分でありながら、関東諸将の会合に列席する地位を得た。また、憲忠の首が三方に載った様子が瓜を横切りにしたように見えたことから、成氏は多賀谷氏の紋を瓜に一文字にせよと命じたとも伝えられている。
 寛正2年(1461年)、大宝沼の岸に下妻城(多賀谷城)を築城し、以降、多賀谷氏代々の居城とした。 

多賀谷家稙 多賀谷政広

 『多賀谷家譜』によれば、朝経の跡を家稙が継いだ(「下総守基泰」とは同一人物と考えられる)。家稙は、康正元年(1455年)下妻に入り、飯沼氏一族の堀戸氏を滅ぼし、大宝沼の南にある関城に入ったという。その後、下妻城を築きこれを本城とした。下妻城は別名「浮島城」とも呼ばれ、沼のなかの島と島をつなぐ要害堅固な水城であった。以後、家稙は下妻城を拠点に、結城氏に属しながら独自の版図を作り上げていく。
 結城成朝の跡は長朝の子・氏広が継いだが、氏広は文明13年(1481年)に死去し、子の政朝がわずか3歳で結城氏家督を継いだ。この政朝に仕えたのが家稙の甥にあたる多賀谷和泉守(実名不詳)で、幼い政朝を主とも思わず、結城城の西館を本拠として権勢を振るい、結城氏の家臣たちに睨みをきかして結城城の城主のように振舞ったという。
 このような和泉守の横暴に対して家稙は、小田氏と結んで結城領に侵入したが、結城政朝の出陣によって小田・多賀谷勢は500余の兵を討たれる敗戦を被った。政朝は和泉守の横暴を憎んでいたが、家稙の結城領侵入は認めなかった。とはいえ、和泉守の横暴はますます増大したため、ついに政朝は家稙と結んで和泉守を討つことに決心する。
 『結城家之記』によれば、政朝と家稙による和泉守討伐は明応8年(1499年)8月のことで、和泉守に味方した結城氏の家臣たちも討たれ、この和泉守討伐を契機として結城政朝は家中の矛盾を克服することに成功した。結城氏はこの和泉守による下剋上を克服したことで、より強化された領主権を確立し、戦国大名に飛躍することができたのである。
 多賀谷氏は家稙の時代の15世紀後半から16世紀にかけて大きく発展をしたが、その時期は関東の大乱時代でもあった。古河公方と関東管領との争い、古河公方と幕府の対立、ついで上杉氏の内部抗争と争乱が連続し関東の政治的混乱は止むことがなかった。そして、古河公方家でも公方足利政氏とその子・高基の間に対立が起こった。この公方家の内紛によって、それまで同盟関係にあった結城氏と多賀谷氏が袂を分かつことになった。
 結城政朝は、小田・宇都宮氏らとともに高基方に、多賀谷家稙は小山・佐竹・岩城氏らと政氏方に属して争うこととなる。公方家の抗争は最終的に高基側の勝利に終わり、一貫して政氏を援助してきた多賀谷氏は敗北を喫した。 

 多賀谷氏が結城氏に帰属するとき、その人質として差し出され、そのまま結城氏の家臣となった。結城晴朝の時代には、主に宇都宮氏や佐竹氏,後北条氏などに対する外交の使者として活躍し、弘治2年(1556年)に下都賀郡内に知行を受け、天正14年(1586年)には常陸の小栗城の在番も務めた。
 1590年、小田原征伐で豊臣秀吉に謁見し、結城秀康の結城氏入嗣をまとめた。この際、秀康から2050石の知行を受けている。政広の跡を継いだ村広は土浦城の城代を務め、越前藩に移封後も活躍したという。 

多賀谷重経 多賀谷三経

 天正4年(1576年)、父の死により家督を継ぐ。上杉謙信や佐竹義重と結んで小田氏・岡見氏を攻撃、牛久地方への進出を図るなど、結城氏からの独立を図ってたびたび行動した。小田原征伐においては後北条氏方の天神城を攻略している。また、重経は1000挺もの鉄砲隊を保有しており、関東では佐竹氏の鉄砲隊と並ぶ規模である。
 しかし、小田原征伐の終了後、結城氏の家臣に再び組み込まれ、主家・結城氏の跡継ぎとして結城秀康が入嗣すると、これに不満を持って、佐竹氏の傘下に転じる。秀康に従った嫡男・多賀谷三経を追放し代わりに佐竹義重の4男・宣家を養子として家督を譲った。文禄元年(1592年)には、文禄の役に非協力であることを理由に下妻城を没収され、豊臣秀吉の命を受けた徳川秀忠らによって破却されている。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、上杉景勝に通じた。このため、戦後に翌年の2月に改易されてしまう。だが、追放の長男の三経は秀康に従って越前藩の重臣となり、宣家は実家の佐竹氏に戻った後で今度は岩城氏を相続して出羽亀田藩藩主となった(岩城宣隆)。このため、家臣達も重経を見捨てて三経や宣家の家臣になってしまった。孤独の身となった重経は流浪の末に末子・茂光が仕えていた彦根藩を頼り、そのまま病死した。
 佐竹氏に仕えた多賀谷氏ゆかりの人物が著したとされる『多賀谷七代記』には重経が武勇に優れていたものの、その贅沢と驕慢から徳川氏の怒りを買って攻め滅ぼされた(史実とは異なる)と記されるなど、多賀谷氏没落の原因を作った人物として描かれている。 

 幼名は虎千代。初名は光経であったが、後に烏帽子親となった石田三成から1字を与えられて改名した。
 多賀谷氏は結城氏と佐竹氏に両属する形で勢力を保っていたが、天正18年(1590年)の小田原征伐の後、天下人となった豊臣秀吉の命令により、結城氏を相続した結城秀康に従うこととなる。これに不満を抱いた父が佐竹氏と結んで離反するに至る。その後の調整で三経は支城の太田城を与えられて分知。父の後継には佐竹義重の子・多賀谷宣家が養子として入り、三経は事実上多賀谷家から追放された。主君・秀康は互いに父親の愛情薄い三経の身の上を案じて御普請与頭に任じて重く用いた。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは秀康に従い、上杉家の抑えとして活動。上杉景勝の南下を防いだ功により、秀康は越前に加増転封される。三経も秀康に従って越前国柿原で3万2,000石を領するが、慶長12年(1607年)、主君・秀康が病死すると、3ヶ月後、その後を追うように病死した。 

多賀谷峯経

 元禄8年(1695年)、家格宿老の戸村処風の3男として出生。はじめ、公命で多賀谷家の養子になった次兄・格重の名跡を相続して戸村家分家の当主になったが、後に同じく公命により多賀谷家の家督(格重の跡目)を相続する。この時に、第5代藩主・佐竹義峯より1字を拝領されて峯経と名乗る。
 享保14年(1729年)に義峯の命で久保田藩家老に就任。俳諧や連歌,茶道を好む風流人で奥義会得のために家臣・愛沢氏を上京させて千宗佐の門に学ばせたり、享保17年(1732年)、檜山屋敷に稲津祇空を招いて、東常縁,宗祇系の古今伝授を受けている。また、京都宇治より茶の種を取り寄せて自家用の茶畑を作らせたがこれが檜山茶の始めとされる。
 元文年中刊行の武鑑に出羽久保田藩の家老として「多賀谷左兵衛」の名が見える。なお、同僚に今宮大学が見える。
 実子は娘(梅津内蔵丞室)のみで跡取りとなる男子がなく、はじめ戸村義見(義連の孫)の次男・峯家(彦太郎)を養子にしていたが早世したために峯家の実弟である峯章を養子とする。
 延享2年(1745年)に家老を辞職し、峯章に家督を譲り、通称を下総と改名して隠居。檜山屋敷に閑居した。宝暦9年7月15日(1759年8月7日)死去。墓所は多宝院。