清和源氏

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土岐光衡 土岐光行

 美濃源氏の嫡流・土岐氏の祖。治承・寿永の乱(1180~85年)で討死した源光長の末子であったが、伯父・光基の養子となり土岐氏の嫡惣を継承した。
 治承4年(1180年)に源頼政が平家に反旗を翻して立ち上がった宇治川の戦いには光衡は参加していない。さらに同年9月の木曾義仲の旗揚げでは、美濃源氏の一族の多くが従軍し、実父の光長,実兄の源光経,山県郡上野の落合国時らも参加して戦死しているが、この時も光衡は参加していない。
 平家は治承4年(1180年)と養和元年(1181年)の源氏の旗揚げに対して近江と飛騨の武士に多く味方に付けて対応している。養和元年(1181年)1月、平維盛は美濃に転戦し、美濃源氏の数氏を討って、その首を京の七条河原に晒している。このような平家の動きを警戒して光衡は源氏の一員として参戦しかねていたが、寿永3年(1184年)になって、一族を率いて鎌倉の頼朝軍に加わって勝利に貢献した。そのため平家滅亡後は鎌倉幕府の御家人となった。 
 建久4年(1193年)に源頼朝が富士の巻狩に出掛けた際、これに随行した。建仁年間(1201~04年)に大内氏と梶原氏に次いで美濃国守護に任じられたと考えられる。そして美濃国内の兵馬指揮統率権,治安維持警察権を与えられた。土岐氏は、先に美濃国に土着していた山県郡の源頼綱の系統や方県郡の源重宗の系統、その他の美濃源氏の各氏の上に立って美濃源氏の主流となった。
 美濃国土岐郡の一日市場館を本拠として「土岐」を号したとされることから、実質的な土岐氏の祖とされる場合が多い。そして天徳寺を氏寺・光善寺を土岐氏の菩提寺として天台宗の寺院を開基したとされる。元久3年(1206年)3月20日に没し、光善寺に葬られた。

 父に続き土岐氏の惣領として鎌倉幕府の御家人に列したが、在京し後鳥羽院の西面武士をも務めるなど朝廷との繋がりも深かった。建保4年(1216年)左衛門尉に任ぜられ、源実朝の征夷大将軍叙任拝賀の際には随兵となり、後鳥羽上皇は光行の武勇と土岐家勢力を期待し院中鍛練の御刀を下賜した。
 光行は承久の乱(1221年)に後鳥羽上皇の京方として1000の軍勢で参陣し木曽川西岸の稲葉郡鵜村山那の池瀬を守り、足利義氏軍100000を相手に対戦するが大敗し美濃守護職を失うが、千葉氏の後見で断罪を逃れ、光定以降、美濃における有力御家人へと成長する。また、光行は居館のあった土岐の地を去り土岐郡浅野で土岐川を北にした浅野館に逼塞し、ここで土岐浅野光行を名乗った。同地にある永松寺の境内に供養塔が存在している。浅野氏の祖となり、饗庭氏,肥田氏,明智氏,多治見氏などの庶流の祖となった。

土岐光定 船木頼重

 得宗家から妻を迎えるなど光定の時代には土岐氏が美濃の有力御家人へと成長していたことが見て取れる。また、光定は美濃国内の本領のみならず伊予国に地頭職を得ていたといわれ、任地に下って所領の経営にあたったとされる。『吾妻鏡』建長2年(1250年)3月1日条に「土岐左衛門跡」が閑院殿の造営に関し築地3本を寄進したことが見えることから、これが左衛門尉光行の跡を継いだ光定の初見とみられる。
 讃岐十郎なる悪党を追捕した功により隠岐守に任ぜられたという。文永・弘安の役でも戦功を挙げたとされている。
 晩年は出家し定光と称したし、弘安年間(1278~88年)に死去したとみられる。没年は弘安4年(1281年)とされることがあるが、弘安7年(1284年)以降とみる説がある。

 船木氏の祖。美濃・近江に所領があったが、のち後醍醐天皇にしたがって讃岐高松荘を与えられる。建武2年(1335)、讃岐で挙兵した細川定禅を攻撃し敗れた。


船木頼員 敷根頼元

 元亨4年(1324年)9月、鎌倉幕府に反発していた後醍醐天皇の倒幕計画を妻に漏らしたことで露見し、正中の変を引き起こした。
 『太平記』巻一「頼員回忠事」によると、頼員も同族の多治見国長らと共に倒幕計画の参加者であり、無礼講という体裁で幾度も開かれた倒幕密議に加わっていた。ある夜、妻との別離を惜しみ、倒幕計画を告白する。妻は六波羅探題評定衆の奉行であった父・斎藤利行へ事の次第を告げ、利行が六波羅探題へ急報したことにより、9月19日には幕府の知るところとなる。幕府は機先を制し、小串範行,山本時綱に軍を率いらせ、上洛していた土岐惣領家に属する従子、もしくは従兄弟の土岐頼兼(従兄、もしくは伯父の土岐頼貞の10男)や多治見国長,一族の尾里国定,その弟の萩原国実,市原国宗,深澤定氏,猿子国行,舟木頼春(土岐頼員)および、足助氏の当主の足助貞親(加茂重成)を討伐させた。国長らは寡兵で奮戦したが、討ち死に、あるいは自害したという。朝廷では、日野家一門の日野資朝や日野俊基が捕縛され、鎌倉へ連行された。
 土岐頼員は、北条氏滅亡後は足利氏に従ったが、世のつまはじきとなり、席田郡の船来山麓に隠れ住んで身を終えた。妻の父の斎藤利行は、六波羅探題滅亡の時に討死したので、妻は当時本巣郡にあった美江寺に入り尼となった。 

 敷根氏は大隅国の国人。清和源氏流美濃源氏の嫡流・土岐氏を祖とし、その子孫が元暦元年(1184年)に大隅小河院敷根村を拝領し下向、兵乱を避けて一時肥後国の球磨へ逃れ、再び敷根に戻った際に敷根氏を称した家で、先祖代々敷根を領してきた。
 頼元は永禄9年(1566年)、敷根氏14代当主・敷根頼兼の嫡子として誕生。主君・島津義弘に従い豊後国攻めの際はその供をして八代へ入った。天正15年(1587年)に島津氏が豊臣秀吉に降伏し、義弘が初めて上洛する際にも、その供を務めた。文禄の役にもその供をすることになり肥前国名護屋城へ入ったが、義弘の嫡子・久保が朝鮮へ渡海するための船が遅参していたため、頼元は自らの船を久保に差し出している。頼元はこの褒美として、1,000石を拝領する感状を得た。
 文禄4年(1595年)、祖父・頼賀が下大隅の田上城へ移動となり、敷根氏は本貫地であった敷根より離れることとなった。
 慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の死去に伴い、日本軍は11月15日を以って帰陣すると定めていたが、順天に残る小西行長らが敵船により海上を封鎖され、それが叶わなくなる。泗川新城にあった島津義弘は、小西らの安否を確かめるべく頼元と鎌田政冨を使いに出し、頼元らは敵番船の中を掻い潜って無事に順天へ入った。しかし、その帰路で逆風に遭い、船が大破して、政冨共々溺死した。その際に先の感状も流失した。
 頼元の名跡は、島津忠長の3男である立頼が婿養子となり継ぐのであるが、島津一門となった敷根氏は慶長19年(1614年)に市成へ移封、寛永20年(1643年)より島津姓を許されると市成島津家となった。 

敷根立頼 島津久頼

 島津庶流の島津忠長の3男として誕生したが、慶長3年(1598年)に敷根氏15代の敷根頼元が男子の無いまま慶長の役出征中に溺死していたことから、翌慶長4年(1599年)4月に主命により、頼元の娘婿となりその家督を継いだ。また同年8月、田上より高隈へ移封となった。
 慶長15年(1610年)1月、実父に代わり1年間江戸に人質として入り、翌年に薩摩へ帰国する際に、徳川家康より太刀・脇差・青毛の馬・衣服などを拝領している。また、慶長18年(1613年)、実兄の久元より心付けとして500石を与えられている。慶長19年(1614年)、高隈在番から鹿児島在勤を命じられ、その冬に高隈から市成へ移封となり、以降は串良・伊集院・大口などの地頭を歴任した。
 元和2年(1616年)、徳川家康が死去すると、このとき伊勢貞昌と共に駿府にいた立頼は、遺品として衣服を5着ずつ拝領している。
 寛永4年(1627年)に死去した。享年43。家督は嫡子の頼国が継いだが、頼国もその6年後に嗣子なく早世するため、名跡は次男の久頼の系統が継ぎ、後に島津姓を許されて市成島津家となる。 

 祖父は宮之城島津家の祖である島津忠長で、父の立頼はその3男であるが、大隅国の国人で土岐氏の末裔である敷根氏を継いだ。久頼は立頼の次男として生まれたが、寛永10年(1633年)に家督を継いでいた兄の頼国が嗣子の無いまま20歳で早世したため、久頼が跡を継ぎ、敷根蔵人頼喜を名乗った。
 寛永16年(1639年)6月28日に主君・島津家久の8女を娶る。寛永20年(1643年)に後光明天皇が即位した際は、2代藩主・光久の名代として上洛することとなり、この際に島津の姓と「久」の偏諱を授かり、以後は島津筑前守久頼と名乗った。
 また、正保3年(1646年)に光久より、以後代々島津姓を名乗ることが許され(ただし嫡流のみで、次男の家は土岐姓)、また敷根氏の祖先の氏である源氏(清和源氏)から、島津家が氏とする藤原氏を名乗ることも許可された。慶安2年(1649年)、光久の家老職に抜擢され、御役料として1000石を賜った。