清和源氏

G132:土岐光衡  源 経基 ― 源 満仲 ― 源 頼光 ― 源 頼綱 ― 源 国房 ― 浅野光時 G147:浅野光時

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浅野光時 浅野長勝

 土岐氏初代・土岐光衡の2男で現在の岐阜県土岐市肥田町浅野に居住し、浅野二郎,浅野光時を名乗り、土岐浅野氏,土岐肥田氏の祖となる。六条判官代。
 土岐家惣領は兄の土岐光行が継ぐ。土岐光衡,土岐光行は承久の乱の責任を取り浅野館に蟄居するが、『吾妻鏡』には承久の乱以降も幕府方に土岐左衛門尉として名前がある。これは土岐光時と推定される。

 織田家の弓衆として仕え、天正年間に安井城を築城。安井城は後に長勝が中島郡大里村に所領が移った時に廃城となった。後に浅野城に移る。その後、織田信長の命により、羽柴秀吉に属す。
 妻・七曲の妹の朝日と杉原定利夫妻の娘であるねね(おね),ややの姉妹を養女として浅野家に入れて育てている。また姉婿の安井重継の子で甥にあたる安井弥兵衛(養子になり、浅野長吉と名乗る)をややの婿養子にむかえている。これが浅野長政である。
 ねねが木下藤吉郎に嫁いだことから浅野家は木下(杉原)家とならんで秀吉に最も近い姻戚となり、この関係から後の豊臣政権に重きをおくことになる。

浅野ねね(高台院) 浅野やや

 杉原定利と朝日殿の次女として尾張国朝日村に生まれる。のちに叔母・ふくの嫁ぎ先の浅野長勝の養女となる。
 永禄4年(1561年)8月、織田信長の家臣・木下藤吉郎に嫁ぐ際、実母・朝日に身分の差で反対されるも、兄の家定が自らも秀吉に養子縁組すると諭したため無事に嫁いだ(通説では14歳)。当時としては珍しい恋愛結婚であった。結婚式は周囲に反対された事と夫の身分の低さから藁と薄縁を敷いて行われた質素なものであった。ふたりの間には子供が無かったので、加藤清正や福島正則などの秀吉や自身の親類縁者を養子や家臣として養育していった。
 永禄11年(1568年)頃から数年間は、美濃国岐阜に在住。天正2年(1574年)、近江国長浜12万石の主となった秀吉に呼び寄せられ、秀吉の生母・なかと共に転居した。この後は遠征で長浜を空けることの多い夫に代わり、城主代行のような立場にあった。天正10年(1582年)の本能寺の変の際には長浜城にいたようで、明智方の阿閉氏が攻めてきたので、大吉寺に避難をしている。
 その後、秀吉と共に大坂城に移り、天正13年(1585年)、秀吉が関白に任官したことに伴い従三位に叙せられ、北政所の称号を許される。天下人の妻として北政所は朝廷との交渉を一手に引き受けたほか、人質として集められた諸大名の妻子を監督する役割も担った。この頃、何らかの症状による便秘に苦しんでおり、10月24日付のおね宛ての秀吉の書状の中で、「大便」の文字が三度、「下くだし」(下痢)の語が二度でてくる。
 天正16年4月14日(1588年5月9日)、後陽成天皇は聚楽第に行幸し、5日後無事に還御すると、諸事万端を整えた功により北政所は破格の従一位に叙せられている。
 天正20年(1592年)、秀吉から所領を与えられており、平野荘に約2,370石,天王寺に3,980石,喜連村約1,405石,中川村約491石など、合計1万1石7斗であった。
 慶長3年8月18日(1598年9月18日)に秀吉が没すると、淀殿と連携して豊臣秀頼の後見にあたった。武断派の七将が石田三成を襲撃した時に徳川家康は最も中立的と見られている北政所の仲裁を受けたことにより、結論の客観性(正統性)が得られ、家康の評価も相対的に高まったと評価されている。慶長4年(1599年)9月、大坂城を退去し、古くから仕えてきた奥女中兼祐筆の孝蔵主らとともに京都新城へ移住した。関ヶ原の戦い前に京都新城は櫓や塀を破却するなど縮小されたが、これには城としての体裁を消し去るという意味があったものと思われる。このころの北政所の立場は微妙で、合戦直後の9月17日には大坂から駆け付けた兄の木下家定の護衛により准后・勧修寺晴子の屋敷に駆け込むという事件もあった。
 関ヶ原合戦後は、引き続き京都新城跡の屋敷に住み、豊国神社にたびたび参詣するなど秀吉の供養に専心した。
 慶長8年(1603年)、養母の死と、秀吉の遺言でもあった秀頼と千姫の婚儀を見届けたことを契機に落飾。朝廷から院号を賜り、はじめ高台院快陽心尼、のちに改め高台院湖月心尼と称した。慶長10年(1605年)、実母と秀吉の冥福を祈るために家康の後援のもと、京都東山に高台寺を建立し、その門前にも屋敷を構えた。大坂の陣では、「高台院をして大坂にいたらしむべからず」という江戸幕府の意向で、甥・木下利房が護衛兼監視役として付けられた。そして、身動きを封じられたまま元和元年(1615年)、大坂の陣により夫・秀吉とともに築いた豊臣家は滅びてしまう。だが徳川家との関係は極めて良好で、徳川秀忠の高台院屋敷訪問や、高台院主催による二条城内での能興行が行われた記録が残っている。またなお公家の一員としての活動も活発でこのころ高台院からたびたび贈り物が御所に届けられたことが、『御湯殿上日記』から知れる。
 寛永元年9月6日(1624年10月17日)、高台院屋敷にて死去。享年については76,77,83などの諸説がある。なお最晩年に木下家から利房の一子・利次(一説に利三とも)を豊臣家(羽柴家)の養子として迎えており、遺領約1万7,000石のうち近江国内3,000石分は利次によって相続された。
 墓所は京都市東山区の高台寺。遺骨は高台寺霊屋の高台院木像の下に安置されている。

 通説では、父は杉原定利で、母は朝日殿(杉原家利の娘)とされ、姉おねと共に、浅野長勝とその後妻で(ややの叔母にあたる)七曲殿の養女となり、ややが安井重継の子長政(長吉)の妻となって、これを浅野家の婿養子として迎え入れたとされる。
 しかし杉原氏,木下氏の系図にややに関する記述が無く、別に浅野氏の系図には、ややの父は浅野長勝で、母はその先妻の勝福院(樋口美濃守の娘)であると記述するものがあり、ややは長勝の実の娘で、おねとは義理の姉妹だったとする説もある。
 長政との間には浅野幸長,浅野長晟,浅野長重,豊姫(杉原長房室),女(堀親良室),智相院(松平定綱室)をもうけた。
 慶長16年(1611年)、長政の死後は出家して一宝宗玉と号した。また、長重領の真岡2万石の内3千石を隠居料とした。
 慶長18年(1613年)、長男・幸長にも先立たれる。この際、幸長に男子がいなかったため、世継ぎ争いとなり、3男・長重に遺領を継がせるように希望したが、結局、次男・長晟が継いだ。
 元和2年(1616年)江戸にて死去。葬儀の際に徳川義直より銀100枚が下賜された。墓は、夫と同じく天目山伝正寺にある。