惣領家の土岐頼貞の子の頼兼、一族の頼員(舟木頼春)、足助氏の当主の足助貞親(加茂重成)らとともに後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒計画に参加し、日野資朝の招きにより1324年京都に入った。 しかし、頼員がその計画を六波羅探題の奉行の斎藤利行の娘である妻に漏らしてしまったことから事前に露見し、六波羅探題の配下である小串範行によって夜中に急襲を受ける。『太平記』巻一「頼員回忠事」によれば、無礼講による終夜の酒に酔っていたが、この急襲の声に驚いて慌て騒いだ。無防備であったが、共に寝ていた物馴れた遊女の機転により鎧兜を身につけ、寝入っている者を起こすことができたという。国長は頼兼とともに少数の手勢を率いて奮戦したが、最終的には館の裏手を突破されたことから観念し、一族郎党とともに自害して果てた(正中の変)。 1905年11月18日、正四位を追贈された。
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