<藤原氏>北家 秀郷流

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近藤康用 近藤秀用

父の忠用と共に今川氏に従っていた為、知行221貫文を安堵されていた。今川氏の領国支配力に不安が見え始めた桶狭間の戦い以降も、同僚の鈴木重勝に同調、今川氏の傘下でいることを継続した。
やがて、徳川家康が遠江国を窺うようになると、その懐柔工作によって今川氏を離反。永禄11年(1568年)末からの家康による遠州攻め入りでは、子の秀用を従軍させていた。老齢である上、長年の戦働きによる負傷で歩行困難となっていた理由も重なっていたのである。
天正16年(1588年)、閉居先の井伊谷で死去。72歳と伝わる。

父の康用は永禄11年(1568年)末、徳川家康の遠州攻め入りで今川氏方を離反した井伊谷三人衆の一人として知られる。老齢や戦傷を負い歩行困難であった父に代わって秀用が戦役を担っていた。秀用は姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、小田原征伐などでいずれも軍功を挙げ、特に小田原征伐では豊臣秀吉からも賞賛された。
やがて、徳川四天王で知られる井伊直政が台頭してくると、家康の下命で寄騎として直政の片腕となった。しかし、直政の冷酷な性格に嫌気がさした秀用は、それまでの功績から家康に直臣として取り立ててくれるように嘆願したが、直政に徹底してそれを妨害された。遂には暗殺まで謀られたため、秀用は命の危険から逃れるために出奔して伊勢国に逃亡した。なお、近年の研究によれば、初期の井伊家の重臣の人事は家康が直接関与しており、当主・直政以下の井伊家側は家康の許可なく勝手な人事はできなかった(家康は基盤の弱い井伊家を強化するために直政付の家臣を井伊家の家臣に編入する方針があったと考えられている)。そのため、秀用は家康の許可が得られないまま井伊家を離れ、それが家康に対する反抗とみなされたとする。
慶長7年(1602年)、直政が死去すると、徳川秀忠は秀用を召し出して、上野国青柳に5000石の所領を与えられた。翌慶長8年(1603年)になって池田輝政の仲介によって、ようやく家康の勘気が解かれた。慶長19年(1614年)には相模国内で1万石を加増され、小田原城の城番となる。大坂の陣にも参陣して武功を挙げ、元和5年(1619年)に遠州引佐郡井伊谷へ転封、1万5000石の大名として井伊谷藩を立藩した。元和7年(1621年)には2000石の加増を受けている。
しかし所領を子の季用、用可、用義たちに分け与えて細分化したため、井伊谷藩は秀用1代で終焉した。その後の近藤氏は旗本として徳川氏に仕えることとなった。
なお、その後の秀用は寛永2年(1625年)に石見守に叙任されている。寛永8年(1631年)2月6日、85歳で死去した。墓所は東京都文京区本郷の大安寺。

 

近藤用義 近藤用将

大坂の役ののち、小姓組となる。父秀用の小田原城番の時にその職務を補佐する。寛永3年、小田原で没する。享年31。
父に先立ち用義が没したので、子の用将が秀用の遺領のうち5450石を分知され、井伊谷近藤家の祖となる。     

 

父が祖父近藤秀用より先に没していた為、寛永8年(1631年)、秀用の遺領から5,450石を分知され、井伊谷近藤家の祖となる。寛永9年(1632年)9月、井伊谷の八幡宮本殿を再興した。寛永14年2月3日(1637年2月27日)、初めて所領の井伊谷に入るも、閏3月21日(5月15日)には江戸へ出立した。
正保4年、命により甲府城を守衛し、明暦元年、下館城を守衛する。万治元年9月8日(1658年10月8日)、内藤政吉・秋山正房・町野幸宣とともに江戸中定火之番(定火消)を命ぜられると、同年閏12月28日(1659年2月19日)には布衣を着ることを許される。翌年、万治2年1月4日(1659年2月25日)、江戸の上野東照宮の前で徳川家綱臨席のもと、同職の定火消と出初式を挙行した。これが『日本における出初式の始まり』である。
寛文3年(1663年)持筒頭となり、延宝元年百人組頭となる。天和2年職を辞して寄合となる。貞享元年7月19日(1684年8月29日)の辞仕により隠棲領300俵を賜る。入山と号する。