<藤原氏>北家 秀郷流

F972:近藤満用  藤原房前 ― 藤原魚名 ― 藤原秀郷 ― 藤原千常 ― 近藤脩行 ― 近藤満用 ― 近藤用可 F975:近藤用可

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近藤用可 近藤用行

 当初は結城秀康,松平忠直父子に仕えたが、元和元年(1615年)、大坂の役の時に父の要請で幕臣となり、父と共に戦い、天王寺口の戦いで首級を挙げる。元和2年(1616年)、徳川秀忠に仕える。
 元和5年(1619年)、父の秀用より5300石を分知され旗本となり、気賀に陣屋を構えると、姫街道にある気賀関所の関守を兼ねた。
 元和7年(1621年)、松平忠直が病により参勤がままならず、少し回復したので出立したが途中で使者を立てて、越前へ引き返している。これに対して将軍・秀忠の命で越前に赴き忠直の病状を聞きに行ったが、その帰路の相模国大磯で落馬により急死した。
 遺領は庶出の長子近藤用行(大谷近藤家祖)と、嫡出の次子・近藤用治に分配された。 

 寛永元年(1624年)、用行は庶子のため、気賀近藤家を弟の用治に譲り、遠江国大谷(現・三ケ日町大谷)2000石を分知され寄合に列し大谷近藤家の初代となる。寛永8年(1631年)、祖父の領地のうち400石を分知される。寛永9年(1632年)、徒頭となり布衣を許される。寛永10年(1633年)に将軍家御用の新茶を運ぶ宇治採茶使を神尾守勝,朽木友綱,安藤正珍と務める。同年500石を加増され、新田を加えて3,000石を領する。
 子孫は、3,000石の旗本として存続している・

近藤用誉
 天保13年(1842年)、第7代・近藤用誉の時に内野(現・浜松市浜北区)に移った。